タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会

Japanese Mother Tongue and Heritage Language Education and Research Association of Thailand (JMHERAT)

何人(なにじん)かは問題じゃない、僕は僕 ―神様がくれたメリット―

複言語・複文化を生きる親と子の思い −経験を語る、経験を聞く−

  子の思い(Kさん)第3回報告(最終回)

タイで育った子どもの話‐Kさん


第3回報告
【Kさんとアイデンティティ

最終報告、第3回報告ではKさんの自分意識(アイデンティティ)を巡るストーリーを報告します。

タイ人と言われた日本人学校
日本人学校に行くまでKさんの生活はタイ人ばかりの環境だった。その環境で日本人と言われて区別されたことはなかった。

小学校に入ってから、タイ人、タイ人っていじめられたことはあります。
学校に行きたくないってことはありました。その、いじめで。。。

自分を何人と考えたことはなかったKさんが、日本人学校に入りタイ人といじめられて、周囲との違いを意識する。周囲とは「違う」という思いは次のような感情を引き起こした。

持ち物が違うから恥ずかしいっていうのはあった。ランドセルでなかったというのがあって。習字道具が違ったとか。ハーモニカの形が違ってたとか。なんか、そんなんがありましたね。ほんと、小っちゃいことだと思うんですけどね、今からみたら。
PTAでお母さんが来るのが恥ずかしいと思うこともありました。でも、後でそう思わなくなった。周りにやっぱそういう子がいたから。お母さんは日本語ボランティアっていう、日本人学校でそういうのがあるんで入っていたんですよ。で母さん同士で料理作ったり、旅行行ったり、そういう中で友達もできたみたいで、そういう人達と一緒に(PTA)来るから、恥ずかしいのも無くなってきました。

違いが「恥ずかし」かった。しかし、違いを共有できたことでKさんの「恥ずかしい」と思う感情は消えた。では学習上で何か問題はなかったのか。


実感はなかった日本人学校の学習
日本語は最初の頃は弱かったように思うが特に問題だった記憶はない。Kさんが語るのは学習の内容についてだ。

日本語の勉強は強制されたわけじゃないけど、勉強(そのものは)できないと外の暑い中で働くことになるって言われていてそれは嫌だった。でも、タイに住んでいるのに、なんで日本語を勉強するのか、という思いはあった。日本人学校の勉強も古典とか歴史とか文化は教科書だけで、文字だけで理解。テスト(のため)にとりあえず言葉を覚えた。でも、実感はない。雪が降る、葉っぱの触れた時の感触、色、そんなことは分からない。社会とか国語は好きじゃなかった。

日本人学校の勉強はKさんの実感に結びつかないものも多かった。日本で育ったことがない子どもが日本人学校で学ぶことは単に日本語の問題だけではない。学習内容と自分の実感が結びかない大きな問題がある。それでもKさんは将来の自分のために勉強した。

今は知って良かったと思う。タイ人が知らないことを知っている。かっこいいと思う。

数学、理科は好きだった。自然に関することを知っているのはかっこいい。日本のことを知らなくても学べる科目は好きだった。科目の内容理解には実はその背景となる世界が必要。日本文化を背景にしていない子どもの事情がよくわかる。ところで学校でKさんはどのような存在だったのだろうか。


Kさんの学校時代の自分意識(アイデンティティ)−僕は僕
日本人学校でダブルの子どもたちは孤立していたのかという質問にKさんはこう答えた。

僕が一番孤立していたかもしれない、でも孤立というより、、Independent。。かな

今振り返って自分の状況を「Independent」だったと表現するKさんは、さらに自分のことを次のように語る。

父さんは「お前は日本人なんだから、日本人として生きろ」みたいなのはぜんぜんありませんでしたが、アイデンティティっていう言葉を使っていました。今でも意味は分からないんですけどね。
日本人学校ではタイ人と言われていじめられたこともあった。でもインター校やタイの学校に行きたいと思ったわけじゃない。僕は僕と思っていた。

僕は僕という思い。それはIndependentということばに良く表れている。これがKさんの自分意識である。○○人という周囲からの決めつけもあったと思うが、その決めつけに翻弄されていない。この強い独立心には「日本人として生きろ」「日本語を勉強しろ」と強制されなかったことも大きく影響しているのではないだろうか。ではKさんは今自分をどう捉えているのだろうか。


Kさんの今の自分意識(アイデンティティ

何人なにじんであるかは重要じゃない

自分を何人って思うかってよく聞かれるんですけど、タイにいたらタイ人です。日本にいたら日本人ですって答えています。タイで日本人だと言うと日本人的なレスポンスを求められるから。そこまで日本人的なことはできないんです。内面的には、どっちでも良いと思っています。自分が何人であるかということは、自分にとっては重要なことじゃない。

神様がくれたメリット

私は父が日本人で母がタイ人であるということは、せっかく神がくれた良いメリットなんでこれはうまく使います。
自分がいるのは、こういう父親がいて、こういう母親の性格があって、二人がよく混ざってくれていると思うんです。でも、他の家族でこうしたらいいんじゃないの、って言ってもダメだと思うんですよ。個性があるんで。だから、自分の体験談は説明できますけど、こうしてください、こうした方がいいです、なんて言えないです。

両方ある自分のメリット。その神様がくれたメリットを生かすにはきちんと知識をもつことも重要だとKさんは言う。Kさんは法律も調べた。「タイの法律ではどちらかを選ぶ権利があると表現されています。」国籍は自分が選ぶ権利なのだ(注)。内面的には何人なにじんかは重要なことでではない。そう言い切るKさんはあくまで自分は自分だと捉えているのだ。


複言語・複文化で育つ子どもたちはKさんが言うようにそれぞれ個別の環境を生きていかなければならないでしょう。複数あることを、どっちつかずと悩むのではなく、複数である自分を自分と捉え、複数であることを権利と考え生きていける力。複言語・複文化の子どもの将来像の一つの可能性をKさんは私たちに示してくれているのではないでしょうか。(JMHERAT)


(注)二重国籍の権利については2012年6月12日のブログ記事をご参照ください。『無国籍』(新潮文庫)の著者、陳天璽さんの座談会の報告があります。また、陳さんの「国家と個人をつなぐモノの真相」『越境とアイデンティフィケーション』pp444‐468の内容も紹介。二重国籍の権利に言及しています。