タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会

Japanese Mother Tongue and Heritage Language Education and Research Association of Thailand (JMHERAT)

2015年6月勉強会のご報告

大変遅くなってしまい、申し訳ございません。
以下、6月に行われた第4回勉強会の報告です。

日時:2015年6月6日(土曜日)
午前9時30分〜12時
場所:学習空間NOAH 会議室
参加者:10人
内容:タイで育った当事者の話を聞く

第4回勉強会は勉強会参加者のWさん自身の経験を聞く会となりました。
まずはWさんのお話を報告します。
Wさんのプロフィール:
現在39才。日本人両親のもとバンコクで生まれバンコクで育ちました。幼稚園から日本人学校で学び、高校はインター校に進学。卒業後日本に行き4年間滞在の後、家の事情でタイに戻り現在タイで仕事をしていいらっしゃいます。ご自身、二人のお子さんを持つお父様でもあります。

Wさんの話

【高校まで】
戦後祖父がタイで事業を始めたWさんの家にはメイドさんも大勢いて、従業員も出入りしていたためタイ語も自然に行きかう環境でした。保育園はいろんな多国籍の子どもたちの通う多言語環境で英語もタイ語も普通に話していたそうです。日本人だから日本人学校という祖父の考えで幼稚園からは日本人学校に通い、中学までずっと日本語の学習環境でした。当時、中学卒後は日本の高校に行くか、タイのインター校に入るかどちらかの選択しかなく、Wさんはインター校進学を選択したものの不合格になってしまいます。「自分一人だけ落ちました。英語全然やってませんから、インタビューに全然答えられなかった。」
どうしようかと思い受けた他のインター校にも落ちて英語の塾のような学校に行って英語を勉強することにした。みんな受かって自分だけ…という思いの中
「とにかく話せるようにしなければ」と3か月頑張り5月にルアムルディを受験し合格。
「その時、インタビューに答えられるようになっている自分がいました。」
そうやって入った学校はしかし、最初の数か月は辛いものでした。
「とにかく嫌でした。何もわからない。何も言えない。勉強もわからない。友だちもいない。」
「本当に孤独だった」
それが変わったのは一つの出来事がきっかけでした。

エピソード1「英語の習得きっかけ」−仲良くなりたくてとにかくしゃべった

台湾人クラスメートとの喧嘩が殴り合いのけんかに発展。そのあと仲良くなって
「とにかくその子と話したい。もっと知りたい。でも共通語は英語しかない。だから間違ってもなんでもとにかく話すようになった。」すると「彼の言わんとすることも自分の意志も伝えられるようになって、そうなってから楽しくなって、卒業の時には英語の苦手意識はなくなっていました。」

【卒業後】

高校を卒業する時、英語圏ならどこでもやっていけると思ったが、「自分日本人だよな。でも日本で生活したことがない。」と日本へ渡った。
生活を始めた日本は自分にとっては外国。わからないことがいろいろあってもその大変さは面白さだった。好奇心いっぱいで何でも楽しかった。日本では憧れの芸能界に入ることをめざしアルバイトをしながらレッスンを受けた。しかし、そこは人を蹴落としてでもという人が多い世界。自分のような日本人だけど海外で育った人間を勝手なイメージで枠づけて排除するような雰囲気があった。
「なんでこういう日本人を受け入れないのか。」自分のイメージと違うといじめられる。
「子どもの時のいじめもそうですよね。」
結局そういう世界にいるのはやめようと思って就職することにした。職場でもやっぱりなじめない感じはあった。「空気読めないと言われてもどういう意味かわからない。」「外されるというほど強烈ではないが、またかと(繰り返し感じる違和感)はあった。」

エピソード2「いじめの克服」−いじめられ、そしていじめを乗り越えた
子どものときのいじめとはどういうものだったのでしょうか?

小学校4年生の時、男なのにフルート吹いてって・・・といじめられた。男がフルート吹くのは変…と勝手に持っているイメージからはずれているだけでイジメ。教科書破られたり弁当捨てられたり。(どうやって乗り超えたんですか?)
イジメの張本人がやっていた楽器やって同じ土俵に乗ってやれと思った。1年間猛練習をして、最後私のほうが上になったんですよね。それでイジメはなくなった。
高校入学してから数ヵ月の大変さはこの時の大変さに比べれば大したことはない気がする。

【タイへ戻る】

家の事情で4年いた日本を急遽引き上げることになった。2週間で全てを整理しタイへ戻った。

戻った?

「そうですね。戻ってきた、そう、戻ってきたって感じ。」日本での出来事に挫折感はない。タイに帰るのも親が大変なら当然だと思った。


参加者の感想====

■「拳で分かりあうって男の友情には本当にあるんですね…」(参加者)
エピソード1(高校−英語習得のきっかけ)から
インター校で台湾人の男子生徒と校舎裏で殴り合いの喧嘩をし、喧嘩の後「やっぱり」その生徒とすごく仲良くなったというエピソードが、不思議な感じでした。仲良くなった彼といるのが楽しくて、そこで英語がぐんぐん伸びたという話が印象的でした。(Nさん・学生)

Wさんは「本来の勉強ではありませんが・・」と語っているが、このエピソードは言語が本来どのよう習得されるかよく物語っています。

■「そこでふつうトランペットに挑めるものなのだろうか…」
エピソード2(小学校―いじめ体験)から

Wさんが小学校時代にいじめられたとき、「いじめっこよりトランペットが上手くなろう」と決意して、いじめっ子が担当していたトランペットパートに変更し、練習して本当に追い抜かした、というエピソードが特に心に残りました。(Sさん・父親/教師)

イジメを乗り越えるためにもいろいろな方法があるでしょうが、Wさんは相手と同じ土俵に立ってやろうと楽器を変えます。話を聞いていた時に「でもそこでふつうトランペットに挑めるものなのだろうか」と参加者から一斉に声が上がりました。

日本人学校時代のイジメ、インター校での英語学習、日本に渡ってからの違和感・・・と、壁にぶち当たるたびに強靭な精神力で乗り越えてきたんだな、と感じました。(Sさん・父親/教師)

「どうしたらKさんみたいな"強い子"になれるか」といった感じの(他の参加者から出た)質問に同じ思いでした。(Lさん・母親)

その一つの要因が家族との絆ではないかとLさんは考えます。

度重なる障害(いじめや英会話など)を乗り越えられたのは、いつでも寄り添える家族がいたからだと思います。(Lさん・母親)

突然タイに戻れと言われても帰るのは当然と思えたとWさんが話した時、「ああ居場所だったんですね」と声が上がりました。お父さんは事業が忙しくて「帰っても居ない、朝はもういない」「父とは関係・・・あったのかなあ」というWさんですが、たまたま家にいたお父さんにイジメのことを話しています。「子どものけんかだろ」と突き放されたものの「でも、それでも、耐えられなかったら言って来い。ケツ拭いてやる」と言われたことを鮮明に覚えています。子どもがいじめにあったりしたとき親はどうすればいいかという参加者の質問に「見守っていればいいんじゃないですか。」と答えていることからも、見守られていた感はあっただろうと思われます。
「問題を起こさなければ何をしてもいいという親御さんの方針ゆえに却って門限を守っていた事」が心に残ると
Lさんは感想を寄せましたが、Wさんは高校から好きにしていいと言われて、そういわれたら勝手なことはできなかった。」と想起しています。この見守られ感、そして戻ることが当然と思える場所の存在は、空間・文化・言語間を移動している子どもには大きな安定感、安心感をもたらすのでしょう。


■「アイデンティティアイデンティティ言いすぎなんですよ、
何人でもよくて、わたしはわたし、でいいと思います」

この会で自分の経験を話そうと思ったのはなぜか?
Wさんは自分の経験が生きるなら、と自分から勉強会に参加してくれました。

どうして自分の経験を話そうと思ったのですか?
今日この議題にもあるけど、アイデンティティアイデンティティって、考えすぎるんじゃないか。それを伝えたい。どこにいて何人であろうが、どんな人であろうが自分は自分でしょ。

「わたしはわたし」というのが第4回勉強会のひとつのキーワードだったように思います。国籍が何であろうと、何語でしゃべっていても、自分は自分であり他の人とは別の存在でいいんだと気づくことが大切なのではと思いました。
「こどものアイデンティティをしっかり確立させてやりたい!」という親の思いももちろんありますが、その前に親自身も自分のアイデンティティとは何かわかっていない、あるいはアイデンティティなんてそんな簡単にはっきりと掴めるものではないのだと改めて思いました。(Nさん・学生)

「こどものアイデンティティをしっかり確立させてやりたい!」という時、それは〇○人といった民族アイデンティティである場合が多くあります。〇○人と明確に言えることが安定した「私」意識になるのでしょうか?
スチュアート・ホールは「誰がアイデンティティを必要とするのか」と問いかけました。社会的マジョリティは自分のアイデンティティなど考えずに済みます。民族アイデンティティは戦争時の移民たちに重くのしかかった身分証明でした。アイデンティティが「身分証明」であるなら、それを必要としているのは誰でしょう。オマエハ日本人ナノか? オマエハ男ナノカ女ナノカ?証明を迫られるのは社会的マイノリティの側です。
当研究会ではアイデンティティを「自分のあり方についての意識」と考え、活動をしています。
石川准は「『わたし』はアイデンティティの束である」(1992)と言います。色々な自分があって『わたし』なのだという意識。複言語・複文化の子どものアイデンティティとはまさにこのような束であるはずです。Wさんも一つの側面で枠づけられたくない自分意識をもっています。これが私たちが目指したいアイデンティティの姿です。

最後に勉強会の後で参加者が考えたことをお伝えして今回の報告を終わります。

wさんのブラスバンドでのイジメを自らのアイデアで克服していったことや、インター校でのケンカのことなど、今迷っている子たちにぜひ、伝えたいエピソードをご本人から聞けて、たいへん貴重な機会をいただきました。「わたしはわたし」という考え方、大賛成です。個人的にも自分に言い聞かせたいと思いました。(Mさん・日本語教師

Wさんの貴重な体験の数々は、複言語・複文化の中で育ってきた息子や私の教え子たちの姿と重なり、たくさんのヒントを得られたように思われます。
Wさんは肝?根っこ?幹?のようにしっかりと一本心髄があって、それがいろいろな困難をも乗り越えてきた源であったのではと感じました。それが国籍や言語を超えたWさんのアイデンティティなのかもしれない。(STさん・母親・インター校教師)

言語能力そのものよりも、自分は自分と思って道を切り拓いていける子供に育てることの方が大事だと感じました。バイリンガル教育の場合、どうやってインプットを増やして言語能力を伸ばそうかという「技術」の問題として捉えてしまいがちですが、どんな状況でも自分を失わない子どもの心を育てることの方が大事なんですね。(Tさん・母親)
言葉を育てることは、単なるインプットの問題ではなく、まさに人間関係を構築する過程の一部であるのだと気づかせていただきました。(Tさん・母親)

まさに、ことばを育てることはことばだけの問題では決してないのです。貴重なお話、そして率直な感想ありがとうございました。