タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会

Japanese Mother Tongue and Heritage Language Education and Research Association of Thailand (JMHERAT)

2017年9月ワークショップのご報告 第4回

みつめよう子どもの姿、考えよう子どもの現実

 タイで育つ子どもたちを新たな豊かさへ繋げる 複言語・複文化の視点 第4弾

 わたしを描く
 ―言語マップで何が見えるか―


言語マップで生まれた語り2

これから登場する2人にはワークショップ後にご自身でライフストーリーを書いてもらいました。
Aさんはご自身が日本以外の国で育ち、その後も日本国内、国外の移動の中で生きてきた方です。Mさんはタイは2か国目の海外在住経験です。国際結婚かどうかに関わらず、複数の言語・文化体験をしてきました。2人とも子育ての真っ最中の母親でもあります。


《言語マップ:大変さを中心に語られたライフストーリー3》

Aさん(30代)
父親:日本人
母親:日本人
0歳で父の仕事の都合で渡米。10歳までアメリカにて過ごす。
幼稚園は公立、小学校は公立と私立。ともに現地校に通うが引っ越しで2度ずつ転校。土曜日は日本人の為の補習校に通い午前中だけ授業を受ける。小学校4年生で日本に帰国し公立(大阪府)の学校に通う。5年生は兵庫県で、6年生は神奈川県で過ごす。香港2年、イタリアに3年滞在し、タイに来て2年になる

 

■日本に憧れを抱いていたが・・・
アメリカにて10歳まで過ごす。家族の間の言語は主に日本語だが、兄弟(兄)との会話は英語、特に喧嘩などヒートアップした場合は100パーセント英語にてやり取りをした。この頃は英語で話したほうが意思疎通は簡単だったが、日本語でも英語でも完全に自分の意志を伝えるのが困難だと感じていた。日本に4年生の時に帰国、公立の学校に通う。アメリカに住んでいた時に一時帰国時に友達ができ、毎年その友達に会うのが楽しみだった。日本の学校に通う彼らを羨ましく思っていて、日本に憧れを抱いていたので、日本に帰国が決まった時は嬉しく思った。しかし、文化や意識の違いに戸惑いを感じ、周りから、「英語なまり」などと言われ、次第に帰国子女だという事を周りに隠すようになり、中学、高校時代の同級生は、帰国子女だという事を知らない。そして言語は日本語のみを使用。英語に再びふれるのは20歳を過ぎた頃から。帰国子女の友人と交流するようになり、また英語を話しだす。
現在はアイルランド人の夫と娘と3人家族。夫とは英語、娘とは日本語で会話をする。
英語の読み書き能力は10歳当時のままだと感じる。

■日本の学校生活
小学生時代―日本に帰国
上履きやランドセルになじみが無かった。
転校初日に漢字テスト。分からなくて泣いた。英語なまりとからかわれる。
周りの子どもや大人から「英語で〇〇って言って!」と言われるのが苦痛に。

中学生時代―文化の違い、出る杭は打たれる
何故「髪の毛を結わくゴムの色が【黒】じゃなければならない」のか「髪の毛の色が黒じゃなければならないのか」(アメリカには多種多様な人種がおり髪の毛の色も肌や目の色も様々だった)。スカートの丈は膝下何センチじゃなければならないのか」(アメリカに住んでいる頃も制服だったが思い思いの格好をしていた)。「ピアス(イヤリング)を付けてはならないのか」(アメリカに住んでいる頃には女の子のほとんどが耳に穴をあけピアスを付けていた)。そういった日本では普通であろう【校則】が心の底から理解できなかった。理由がないと納得できない。納得できないから校則を守らない。そして、教師からは問題児、先輩からは目立つ生意気な子のレッテルをはられ、教師、先輩から呼び出しの日々。当時の教師達に今になって謝罪をされた。「理由なんか無かった、しかし従うしかなかった…」と。

高校時代
相変わらず、校則を守らず入学式の前のオリエンテーションで教師に呼び出され、注意を受ける。
高校時代の友人も中学生時代同様、私が帰国子女だということを知らない。発言や行動が少し変わっている子だと思われ、「天然女子」と呼ばれる。

■大人になって
転機は同じ帰国子女との出会い
20代になり、中学、高校時代をアメリカで過ごした帰国子女の彼と付き合い始め、周りの交流関係がガラリと変わる。周りに沢山の帰国子女の友人が増え、日本人ではない様々な国籍の人々と交流する。封印していた英語を再び話しだす。

苦労する英語
原材料のメーカーの会社にて国際部に所属し、勤め始める。英語を使うようになったものの10年近く英語に触れていなかった為、英語がなかなか出てこない。ビジネスに通用しない。アメリカにいた10歳の英語しか話せない。発音だけはネイティブな為、完璧な英語が話せると思われ苦労をする。そのため英語には苦手意識がある。

■現在の私
アイルランド人と結婚
日本語も英語も中途半端、ダブルリミテッド(である感じがする)。全てに自信を持てない。自分の人生、いつも、そのような気持ちを抱えていた。自分の娘には、そのような想いをしてほしくない。娘に日本語を教えたいが為に、日本語教育能力試験を受ける。そして、この研究会の活動にも参加した。それをきっかけに石井先生※にインタビューを受ける。その際に「日本語も英語も中途半端なわけではなく、慣れていないから」という言葉を頂き、人生観が変わった。肩に乗っかっていた重りが外れたかのように、英語も以前よりスラスラと出てくるようになった。
※2017年のセミナー講師、石井恵理子氏のこと。

ワークショプを終えて(終了後の感想文から)
言語マップを描くのは2度目ですが、大変シールを貼ることによって、自分では気がつかなかった自分の苦労を改めて発見することができました。他の沢山の方のマップを見て、こんなに多種多様なのかと驚きました。学生の大変シールの多さにも納得しながらも圧倒されました。
他の方の言語ポートレートを読んでみると様々な思考や心理があるのだと発見すると共に、あー!!私も同じ同じ!!と共感できる部分が沢山あることが発見できました。ひとりではないんだと思える体験でした。ポートレートを描いてみて、やっぱりアメリカで育ったけれど自分のアイデンティティは日本人であり基盤は日本なんだ!娘にもしっかりと”日本”を伝えたいと改めて思いました。
マップを描いてポートレートを描いてそれをみんなで共有して可視化できたことにより、今はトランスランゲージングの時代だと講師の舘岡先生が仰っていましたが、それを身を以て体験できたと思います。やはりマップとポートレートをワークショプで2つ一緒にしたことでよりいっそう体感できたのだと思いました。


この感想を読んで「自分のアイデンティティは日本人であり基盤は日本なんだ!娘にもしっかりと”日本”を伝えたい」というところが気になり、聞いてみました。

―日本を伝えたいというのは日本人らしさを継承したいということですか?
A:日本人らしさを継承したい。う…ん。自分が七五三とか経験していなくて、そういう、自分が体験したくてできなかったことを娘と一緒に体験したい。。。。。。。そうですね。自分が体験したいんですね、きっと。日本人らしさを継承してほしいと思っているわけじゃないです。
そのあとでAさんはこう続けました。
A:娘には日本人とかアルランド人であるとか、イタリア生まれ(娘さんはイタリア生まれ)であることに拘らず、あなたはあなたらしくと言ってあげたいんです。

「あなたはあなたらしく」
きっとAさんが自分が子どもの時に一番言ってほしかったのはこの言葉なのでしょう。「アイデンティティは日本人」という言葉には、民族アイデンティティへの拘りでなく、「変な日本人」扱いをされてきたけれど、私はちゃんと生きてきたんだという、自己肯定感の発露を感じました。
(JMHERAT運営委員)

《言語マップ:大変さを中心に語られたライフストーリー4》

Mさん(30代)
父親:日本人
母親:日本人
大阪生まれ。8歳(小2)で和歌山県の過疎が進む地域に引っ越し、少人数の学校で過ごす。高校は家から30キロ先の高校に通う。高校の時、アメリカと中国に約1ヶ月短期留学。大学は親元を離れ、四国の国立大学に通う。大学卒業後単身インドネシアに渡り、3年間インドネシアの大学で日本語を教えた後、日系企業現地採用として就職し、7年間働く。結婚を期に帰国し、東京の大学院に進学するが、出産と夫の海外赴任が重なったため、大学院を中退し0歳の娘を連れて家族でタイに移住。現在に至る。

 

■移動の経験―国内・国外
「よそ者」の我が家
8歳で移住した村は、過疎化が進む地域でかなり閉鎖的な村社会だった。そのため、都会から移住した我が家は「よそ者」として扱われ、冷たい仕打ちを受けた。
学校は1クラスの人数が10人程度の学校で、保育園から中学校卒業まで同じメンバーで過ごすことが多い。子ども同士では、方言の違いでからかわれる時期はあったが、すぐに仲良くなり問題なく過ごす。しかし、親世代が参加する行事などでは、親世代から「よそ者の子」という目で見られ、輪に入れてもらえないことなどがあり、心にもやもやしたものを抱える。また、中学1年の時、クラスが断裂する問題が起こった際、「都会から来たあなたのせいで元々仲良かったここの子たちが仲が悪くなった。あなたが1人になればいい。」というようなことを教師に言われ、教師と学校と地域に対する不信感を抱く。

何もかもが大変だったインドネシアの最初の2年
大学卒業と同時にインドネシアの大学で常勤講師として日本語を教える。他大学の大学生と同じコス(日本で言うと寮)に住み、生活をスタートさせる。インドネシア語が全く話せない状態だったので、ご飯を買う、シャワーを浴びる、洗濯物をするなど、生活全般に支障が出た。インドネシア語を学びたいものの、お金も時間もなかったため、なかなか学べず、最初の2年は四苦八苦して過ごす。また教科書以外の日本語に触れる機会がなく、日本語の文字と音声に餓える。教師としても大学を卒業したてのひよっこだったため、失敗が多く落ち込むが、周りに相談できる人もなく、また、インターネットや携帯電話も普及しておらず、日本との連絡も難しく、1人で抱え込む。この状況は2年ほど続くが、徐々にインドネシア語ができるようになり、またインドネシアの文化もわかるようになり、インドネシアの生活に馴染んでいった。

■ことばと私
どうでもいい話ができない
インドネシア生活が2年経過するころには、生活に困らない程度にはインドネシア語で会話ができるようになる。それまで挨拶程度しかできなかった屋台や市場の人たちとも少しだが話をすることができ、楽しさを覚える。ただ、どうでもいい、ただのおしゃべりができる人がおらず、ストレスを感じる。

会社でのインドネシア語
インドネシアの大学で3年間働いた後、教育関係以外の仕事をしてみたいと思い、日系企業に生産管理部のチーフとして就職する。インドネシア人の上司とインドネシア人の同僚との会話は全てインドネシア語だったが、それまで身近な人との会話が中心だったため、会社で使うインドネシア語として不適切だと指摘を受ける。そのような中、生産管理部にいた同僚の1人が会社に適したインドネシア語を教えてくれた。この同僚はインドネシアでできた初めての友人で、インドネシア語だけでなく風習から若者文化に至るまでいろいろなことを教えてもらった。彼女のおかげでインドネシア語力も飛躍的に伸び、インドネシア人と言っても驚かれないほどになる。

■新たな移動、そして今の私
インドネシア人の恋人との別れ
日系企業で働き始めたのと同時期にできたインドネシア人の恋人とは6年付き合い、お互いの家族にも紹介するほどだったが、恋人の家族との宗教に対する考え方の不一致から別れる。恋人の家族とは何度も会い、インドネシア語でたくさん話をしたが、どうしても乗り越えられない壁のようなものを感じる。

10年ぶりの帰国と学生生活
10年ぶりに帰国した日本での生活は、それまでに生活をしたことのない東京ということもあったが、インドネシアとの違いが多く、慣れるまで時間がかかる。また、大学院に進学し大学院での高度な日本語になかなかついていけず、自分の日本語力の低下を実感する。

再び海外生活
日本で結婚し夫の付帯で移住したタイは、人々や町の雰囲気がインドネシアと似ており、タイ語はわからないものの違和感なく日々を過ごす。インドネシアで、インドネシア語がわからないときも生活できたという経験があるため、タイ語が全くわからない頃から娘を連れて出歩くことができた。生活環境ではタイ語や英語が片言でもできれば問題なく過ごせるため、娘が幼稚園に入るまでは問題なく過ごすことができた。また、家族とともに移り住み、日常的に日本語で話せる為、インドネシア移住当初に感じた寂しさなどは感じない。

ワークショプを終えて(終了後の感想文から)
言語マップを描くのは、今回で3度目だったが、1度目は「言語」の大変さにしか気付けなかったものが、2度、3度と描くうちに「文化」の違いによる大変さにも気付くことができた。そちらのほうが大変さの度合いが濃いようにも感じる。また、国を移動するだけではなく、日本国内の移動でも「方言」や「文化」の違いに戸惑っていたことにも気付いた。

Aさんは、帰国した日本の学校で自分にとって当たり前のことが否定され、異質な子と見られないよう英語を封印してきました。それは10歳までの自分を否定されてしまうことでもあり、日本で居場所をみつけられない大きなストレスだったことでしょう。また、英語は周囲の期待と自分の能力に差を感じ、今でも苦手意識があるそうです。でも、こういう自分の思いを話したことはありませんでした。ワークショップは自分を語り、語りあうことで「それぞれの人に様々な思考や心理があり、自分はひとりではないんだ」と思える体験でした。
Mさんは何度か言語マップを描いていますが、今回子どもの時の田舎への移動が自分にとって大きな異文化体験であったことに気付きます。「1度目は『言語』の大変さにしか気付けなかったものが、2度、3度と描くうちに『文化』の違いによる大変さにも気付くことができた。」と言います。国境を越えた移動だけが複言語・複文化体験ではないことがわかります。

「これまでの自分」を描く言語マップ 「今の自分」を描く言語ポートレート
これまで子どもたちと4人の大人の語りを報告してきました。言語マップは言語体験を軸に自分を振り返り整理し、そして、語り合うツールになっています。また、Aさんは言語ポートレートが今の自分を理解するのに役立ったと言います。第3回報告に登場したDさんもそうです。言語ポートレートは言語と自分の関係を描くワークですが、言語だけでなく文化的な要素も描きこまれます。
Dさんはワークショップ終了後、様々に揺れ悩む娘さんに「混ざっていていい」「これでいい」と言えるとすっきりした顔で帰りました。
この二つのワークは複言語・複文化状況の自分を自覚し、複言語・複文化という新たな価値観で自分を捉えなおすためのものです。
今回のワークショップの参加者は程度の差はあれ、全ての人が複言語・複文化でした。でも、それを単言語・単文化的な価値で評価すれば「混ざっている」「どっちつかず」となってしまいます。そうではありません。どのような部分的能力であれ資源です。また単言語・単文化状況とは違い、参加者の数だけ多様な複言語・複文化状況がありました。複言語・複文化を生きている自分、自分たちの多様さ、大変さを自覚し共有することで、単言語・単文化的価値観を乗り越えるそれぞれの力が生まれるように思います。

タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会(JMHERAT)