タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会

Japanese Mother Tongue and Heritage Language Education and Research Association of Thailand (JMHERAT)

どうしたらリテラシーを育てられるのか?

第15回セミナー「複数の言語・文化で育つ子どものリテラシーを考える」報告(2)

子どもを育てる、ことばを育てる

―複数の言語・文化で育つ子どものリテラシーを考える―

  

2019年3月19日に終了した第15回セミナーの第2回報告です。社会的存在としての人生を構築し、活動していくための力「リテラシー」はどう育成すればいいのでしょうか。今回はリテラシ―育成を目指した実践及び調査の紹介、そして各発表への質疑応答とコメンテーターからのコメントを掲載します。

  

〈午前の部〉 

1.発表

「自己表現としての書く活動 ― 高学年を中心に ― 」石野有希(小学校教諭)

「国際結婚家庭の児童生徒への支援の可能性」嶋田俊之(小学校教諭)

2.コメンテーターとの質疑応答

3.コメンテーターより

 

1.発表

「自己表現としての書く活動 ― 高学年を中心に ― 」石野有希(小学校教諭)

 ◆発表報告概要

(1)「作文を書く」f:id:jmherat:20190317105539j:plain

「作文を書く」と聞くと顔をしかめる子どもがいる。小学校の学習で「作文」を書く場面は多いが、淡々と事実を述べ、ありきたりな感想を述べる文章がしばしば見られる。子どもたちにとって作文は、型にはめればマスを埋められる一種の作業のようだ。そこに自己表現はあるのだろうかと疑問を感じていた。国語、日本語の得手不得手に関わらず、どんな子どもにとっても「書いてみたい」と思える課題、「使ってみたい」と思える表現方法の提示を日々模索している。以下、子どもたちの「作文を書く」喜びや楽しみを見出すために、実践した内容である。

 

(2) 子どもたちの「書いてみたい」を高めるために

まず、子どもたちに「書いてみたい」と思わせ、意欲を高めるためにできることを考えた。

①シートの工夫

作文用紙を目の前にすると苦手意識を感じることがある。そのため、作文用紙にこだわらず、便箋を用いて相手意識をもって書かせたり、記者になりきって事実を伝える新聞作成を行ったり、強調したいフレーズを際立たせてポスター形式を取り入れたりした。また、ワークシートを用いて、構成に事象をあてはめたり、自らの感じた五感を書き入れたりし、自分の考えを整理させたうえで作文を書くための手掛かりとさせることもあった。

 

②題材設定の工夫

「もしも魔法が使えたら」など、子どもたちの心をくすぐるテーマを設定すると、目を輝かせて思考を巡らせる。夢中になってマスが足りないほど書く子どももおり、他の子の作文に対しても興味を持ち互いに交流を始める。事実のみを羅列しないように、「最も印象に残ったこと」などに焦点を絞って書かせることがある。また書き終わった作文に対して、「どうして」「どんなときに」などと繰り返し対話することで、具体を引き出し、付け加えて書き加えさせる。子ども自身が語りながら自分の考えを整理し、書いた文章を読み直しながら推敲する姿が見られた。

 

③交流活動

発表会をして聞きあったり、作文を読み合ったりする場を設けた。作文について話をすることで、書き手は今後より伝わるための工夫を見出したり、伝わることの喜びを感じたりしていた。また、聞き手は同じ体験をしていても思考に違いがある面白みを感じたり、友達の新しい一面を見つけたり、その子の良さを再確認したりすることができていた。交流は、友達同士とだけではなく、教師や家族といった大人とも行うことがある。

 

(3) 子どもたちの「使ってみたい」を促すために

さらに、より表現を広げていくためにできることを考えた。

①作品例を示す

同年代の作文例を多く示す。はじめの部分のみ示していくと、続きを知りたくなるものがある。魅力的な書き出しになるよう工夫する姿が見られた。また、全文を読みその良さを話し合う。言葉を吟味してテンポの良さが生まれていることや五感を盛り込んで追体験できるなど次々と気が付いていた。自分たちで見つけた良さは、自分の作文にも生かそうとする。

 

②言葉を指定する

必ず入れるようキーワードを指定することもある。また、NGワードをより入れることもある。例えば「いろいろ」「さまざま」を書かないように指定したり、子どもたちの書いた作文の中に繰り返し登場する語句を「1回まで使う」と限定させたりすることで、自分の言葉を紡ぎだそうと努力する姿が見られ、具体的な姿が見えてくることによって作文に個性が生まれていく。

 

③物語文から表現を学ぶ

物語文で情景描写を学習すると、すぐに取り入れる子どもがいる。また、優れた表現だと感じるところに印をつけさせ書き出していくと、擬音語や擬態語、複合語という言葉の豊かさに気付いたり、比喩や反復、倒置など技法の多様さに気付いたりする。気が付くと自分でも、取り入れてみたくなる。子どもたちが積極的に新しい工夫をするとき、それを紹介することで、他の子も使ってみようとし、広がっていく様子が見られた。

 

④語彙を増やす工夫

擬音語、擬態語や複合語などを学ぶと、子どもたちはどんどん集めたくなる。「言葉調べ」に取り掛かると、自主的に「言葉集め」を行っていく。自分で調べたものは、使ってみたいと思うようで、実際に作文の途中でノートを見返し、使用している姿が見られた。

 

(4) 最後に

誰にでも書ける表現ではなく、その時その場にいた人だからこそわかることがある。一人一人が見て感じた世界を、抱いたその時の思考を、「書く」という自己表現を通し、深め、楽しみ、周囲に発信していける子どもを育てたい。同じ場所にいても、一人一人捉えたことは異なっている。だからこそ、おもしろい。自分の見たもの感じたことに、一番近い表現を選んで文に表わしていくことで、自分を見つめることができる。それを読み合うことで、お互いを理解し、尊重し合うことができる。そんな楽しみを「書く」ことに見出していってほしいと、願っている。

 

質問:学生(児童)の作文へのフィードバックで気をつけているポイントはなんでしょうか。

石野:私からのということもありますし、子どもたち同士のコメントでもそうなんですけれど、否定しないということが一番かなと思います。温かい気持ちでその子が思っていることを肯定してあげたり読み取ってあげたりということが学級作りとか仲間作りにもつながりますので、そこは意識しようと思っております。

 

  • 小学校の調査報告 −子どものリテラシーと家庭の関わり−

「国際結婚家庭の児童生徒への支援の可能性」嶋田俊之(小学校教諭)

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嶋田俊之(小学校教諭)さんが発表してくださった小学校の調査報告の発表概要、また嶋田さんとの質疑応答は事情により掲載していません。運営委員(勇)の感想とセミナー参加者の感想(一部)をもって発表のご報告とさせていただきます。

 

◆感想(第二回報告ブログ担当運営委員:勇)

嶋田さんの発表は、嶋田さん自身が小学校児童とその保護者の方々に日々ふれあいながら、個人的に感じた疑問を出発点に実践した調査を基にしたものでした。その疑問とは、「家の中を学校の学習言語環境と同じにすることが、子どもの学力を伸ばすために必ず必要なのか」ということです。嶋田さんの発表に関して特筆すべき点は二つあります。一つ目は、抱いた疑問をもとに嶋田さんが調査をしてみたという事実。そして二つ目は、その調査から嶋田さんが見つけた「大事なこと」を今回私たちの研究会セミナーで共有し、参加者のいろいろな立場や考え方を持つ方々と一緒に考える機会を提供してくださった、という点です。その「大事なこと」というのは、(1)「学校の学習言語が苦手な保護者を、孤立させず子どもの学習活動に参加してもらう」(2)「学習言語にこだわらず、自分の得意な言語で、気持ちをこめて子どもと関わる」(3)「言語が何かということより、子どもと一緒に過ごす時間を十分にとることが大切」ということです。下に掲載した斎藤先生と池上先生のコメントとも重複しますが、嶋田さんが起こしてくださったこのアクションこそが重要だったと感じています。問題があれば実際に何が問題か調べ確かめる。そこから支援すべきことを明らかにしていく。それこそが子どもたちの現実に添う支援を考えるために私達教師に必要なことだと感じました。

 

【参加者からの感想】

・嶋田先生の発表がとても印象的でした。今回、自分自身が子育て中(ハーフ)のため、今一番悩んでいることでしたので。データ、アンケートに基づいた分析と発表であったので、説得力もあり、とても良かったです。こんなデータ、アンケート、今までみたことがなくしかも現役の先生からのお話で大変勉強になりました。(保護者)

 

・タイ人夫(日本語ができる)、母日本人、タイ現地校に通う2人の子を育てています。最近子どもが中学生になり、家族団らん時の使用言語がタイ語になることが多く少々焦りを感じていました。このセミナー参加で感じたこと。子どもが伝えたい、言いたいと感じることを共有したいと思う時、”この言葉で”と強要せず、心地よく伝えられる言葉で自由に語ってもらうことが大切なのだと悟りました。(教師)

 

・嶋田先生の報告が面白かったです。国際結婚家庭の子ども達をめぐる言語環境とその影響を数字で拝見する中で、校外での交流、特に仲の良い友達を作れる場を子どもに作ってあげることが大切と反省しました。(保護者)

 

・子どもの言語を伸ばすには、親の能力に関係なく、子どもに関心を持ち、子どもの環境と学校の学習活動にもきちんと関わり、学校や先生たちに任せきりにせず、支援するのが良いということを知った。もう少し子どもと向き合った方がいいと思ったし、自分も出来る限りタイ語に力をいれ子どもに頑張っている姿を見せるべきだと反省した。(教師・保護者)

 

・実際に現場で使われている内容をきけてとても参考になった。ダブルの子を育てる親としてとても興味深い内容でした。家庭で使う言語と学校で使う言語が違うといわゆる「課題が見られる児童」になるのではと心配していましたが、言語が問題ではなく、人との関わりが大切だと伺えて安心しました。(保護者)

 

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  1. コメンテーターへの質疑応答

前回報告した「セミナーを始めるにあたって」でコメンテーターが発表した内容についての質問です。

→お二人の発表は第15回セミナーの報告に掲載

「タイの状況:これまでタイで関わってきた経験から」池上先生

「社会参加を支える「読む力・書く力」―リテラシーの捉え直し―」齋藤先生

 

質問1:OEDCが発表したリテラシーの定義「社会的に異質な集団で交流をする」「自律的に活動する」「道具を相互作用的に用いる」は日本には合わないのではないでしょうか?

 f:id:jmherat:20190317123041j:plain齋藤:そういう側面はあるのかもしれないですが、そのままでは、これから多様な社会になっていく中で日本が成り立っていくのかと考えたときに、そうではないだろうと、
文部科学省もこのOECDを参考にしながら、新しい指導要領などでも「対話的」で「主体的」で「深い学び」というようなことを打ち出しています。それが1点目です。もう現実的な問題として外国人の子どもたちが国内でもたくさんいます。今、その子どもたちへの教育が学校現場でも課題として認識されつつあります。今日はこちらでリテラシー一般のお話をしましたが、私は通常は国内の学校教育において子どもたちへの日本語指導であったり、子どもたちが教科学習に参加するための言語の力であったり、学ぶための学習スキルといったものをどのように培っていくかということについて研究を進めていますが、課題は山積しています。そのような中で周りの子どもたちが彼らの存在を、今日のセミナーで言えば、複言語・複文化を持つ子どもとして、そのことを尊重しながら一緒に学んでいこうという価値観というものがまだ形成できていないというところが、国内の学校教育の中では今一番大きい問題になっています。子どもはそれでもそれを変えていける力を子ども同士の関わりの中で高めていったりできるんですが、教育する側のほうこそがなかなか変わりにくいという側面があって、そのようなところに今取り組んでおります。もう一ついえば、異質な他者というときに、必ずしも民族的、言語的な異質性だけではないんですね。今、日本社会でもダイバーシティという言葉が一般化していますけれども、簡単に分かりやすい側面、領域で言えば、特別支援を受けているお子さんや性的なマイノリティのお子さんなどもいます。

 

池上:私は障がい者ですから異質な者にはあたるわけです。そこまで広げれば、特に日本の特質であるとか、認識的な良い点と言われている点は、コンピテンシーが目指すものがあるわけではないということなんですね。目指すところというのは、お互いがお互いを認め合って、それこそ穏やかに暮らすための力というのは何だろうかということを考えることによって分かるものなんです。

 

深澤:ありがとうございます。初めにお見せしましたように、私たちの学生は同質のように見てきましたが、実はいろいろ違いがあった。同じように日本人は同じようだと見えているだけで、その人たちが抱えているものはそれぞれきっと違うだろうと思います。そこを出発点にしたいと思っています。

 

質問2:言語とアイデンティティに関する研究はありますか?

池上:はい、そういった研究は大変盛んになされています。今日のお話から言うと、最初に深澤さんのほうからご紹介があった言語ポートレートがありましたね。人の形の中にいろいろなものが混ざっていて、つまり、一人の人間の中に英語があってタイ語があって日本語があってというように、数えられる形で言語があるわけではなく、混ざった状態、複言語という状態があるのだという考え方があるのですが、アイデンティティもそういったもので考えることができる。つまり、アイデンティティというのは、タイ語が上手だからタイ人だとか、日本語が上手だから日本人だとかいうふうに、すごく固定的で一元的なものではないし、例えば、タイ人とか日本人というアイデンティティというのも、とても固定的なものであって、それはある意味、民族的なアイデンティティという言い方では数えられるかもしれませんし、見ることができるかもしれませんが、そこを目指すということではありません。つまり、今ご質問された方もおっしゃったように、自分が自分である、その自分が何者であるかということをアイデンティティとするのであれば、それは混ざり合っているものであり、今目の前にいる人に出したい自分であると考えると、すごく動くものです。アイデンティティが確立するというと、ゴールがあったり結論があったりするように思いますが、実はそうではなくて、私たちはずっとその自分であることを確立しながら生きていると思った時に、やはり言葉というものをその能力と言ってもいいと思うんですが、言葉の有り様がポートレートにあったように、複雑に入り交じって刻々と変わっていくものであれば、それに従って私は何者であるというアイデンティティも変わっていくというふうに思います。揺れていることが良くないとか、ちょっと複層的になっていることが良くないということではなくて、それはものすごく単一的なものがあるべきで、しっかり何々人であるということがいいという価値観に基づいた考えになりますし、それは言語ポートレートの話に戻ると、ここで言語状況の中で暮らす子どもたちにはあまり合わないというように私は思うんです。そうではなくて、そういう状況を組み込んだ自分を何であるかというふうに言う。それが必要であって、言語の力とアイデンティティの関係性というのは、そこを語れることがそのアイデンティティに必要な言語の力というふうに言っていいのではないかなと思います。そして、言語ポートレートで現れていることの中にもアイデンティティが含まれていて、それを私たちがどのように見て、どのように認めるかということが、その子の言語の力を認めて伸ばすことにもつながっていくというふうに考えられます。

 

齋藤:心理学のほうでももちろんなさっていますけれども、この領域だと日本では異文化間教育とか異文化間心理学というような領域が多くしています。その中では、文化間を移動しているような青年や子どもたちのアイデンティティということが大きな主題になっています。アイデンティティですけれども、文化間を移動すると、どうしても何とか人のアイデンティティ、何とか人のアイデンティティというふうに捉えたくなってしまうんですが、例えば私でしたら、今ここに座らせていただいていますけど、なぜここに座っているかと言えば、私はこの領域の専門家だというふうに深澤さんが私を見たということです。私はその見立てを受けたアイデンティティをどこかで意識しています。また、私が今暮らしている中では、大学の教員として学生に指導している教員としてのアイデンティティがありますし、学校の先生方とコミュニケーションを取りながら子どもの日本語教育について一緒に悩んだり考えたりしている半分実践者のつもりでいるというアイデンティティも持っているんです。そう考えると、お子さんが、例えば、家族の中で長男であるアイデンティティとか、あるいは妹がいる僕というアイデンティティもあるでしょうし、母親との関係で、例えば、タイのお母さんと暮らしているときに日本語で何か用事が必要なときに僕が助けてあげるとなったときには、そこに今度はお母さんを言語面でサポートする僕というような、様々な側面のアイデンティティが複合的に合わせられた段階のアイデンティティ、合わせられた状態が自分のアイデンティティだったりします。そうしたときに、言語の持つ意味が非常に大きいんですけれども、この言語ができないと何とか人としてのアイデンティティはないねというような紋切り型の捉え方をすると、子どもたちは苦しくなります。その辺りを、異文化間教育のほうでは多元的アイデンティティという言葉を使います。いろいろな言語やいろいろな民族、文化が交じった状態だけれども、それが私である。そういうような捉え方ができるとよろしいのかなというふうに思います。

 

深澤:いろいろな学生たちにインタビューしてきましたけれども、ある時学生に発表してもらったときに、一番親御さんたちに言いたいことは何か。何々人として育てないで欲しい。あなたは何人だという言い方をしないで欲しい。私は私なのだ。それもまた変わっていくんですね、複合的に。しかし、自分たちが、私たちは日本人だ、何人だと民族アイデンティティで自分たちを整理しながら生きてきたものですから、複合的、しかも、そのアイデンティティが変わっていくということは、なかなか私たちが納得しがたい。だからこそ、一緒にそういう複合的なものを先生たちの話を聞きながらも捉えていけたらなと、その過程を子どもが一緒に生きてくれたらなと思います。

 

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3.池上先生と齋藤先生から発表へのコメント

《池上先生》 

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池上:まず、石野先生のご発表への感想とコメントになりますが、発表ありがとうございました。とてもアイデアが満載でしたね。これからまねしたくなるような、こんなふうにすれば子どもたちは単に埋める作業ではなくて、自分の中にあるものを文章として書き表してくれるんだなということがたくさん分かる実践の報告であったなというふうに思いました。

 

参加者と共有したいことは・・・まず意欲の喚起を大切に

池上:一つ分かったこととして皆さんと共有したいこととしては、まず意欲が大事なんだなということです。方向が先にあるのではなくて、まず書きたいなとか、これを書いてもいいんだなとか、そういう書こうかなと思える意欲をまず喚起して、それに乗せて、どういう方法だったらそれを文字に表せるかということを考えていく。ご発表もその順番だったと思うんですけれども、意欲の喚起から方法につなげていくということがとても大事なんだろうなと思いました。

 

意欲喚起の方法・・・ワークシートへの工夫

池上:意欲の中に、形式をいろいろ工夫して、ワークシートの工夫もたくさん見られたんですけれども、一つ大事なことは読み手を想定するようなワークシートを作っていらっしゃる。つまり、書くというときには、書いたものを誰かに読んでもらいたいじゃないですか。読み手がないものを書くというのはほぼない。落書きだって誰かが見ることを想定して書きますし、日記も実は自分が相手だったりしますよね。そういう意味で、そこに言語を書くことなんていうのは、これもコミュニケーションの一つなんですね。受け手という読み手に対するコミュニケーション行動ですから、それは子どもたちにとっても同じことで、読み手が想定できるようなワークシートの工夫というものが見られたと思います。

 

書き言葉としての機能の意識化とプレライティング

池上:それがいろいろここまでの実践、石野先生だけではなくて、学校教育の中でも積み上げられている形式だったり新聞の形式だったりもしますし、それをもう少し小さいサイズにしてお隣の人に見てもらうでもいいですし、石野先生に読んでもらうでもいいですし、今日お休みした何とかさんに読んでもらおうでもいい。それがリテラシーのほうでもお話しました、今ここの場所と今という時間を越える書き言葉の機能だと思うんです。それをどうやって子どもたちに意識化させてあげるかということが意欲にもつながっていくし、書くことという意味を子どもたちが理解して、書き言葉の機能というものを理解していくことにつながるのではないかと思います。そういったものを書いていくことによってそのもの自体が、プレライティングという言い方をするんですが、書く前の活動としてとても機能する。もちろん書いてはいるんですが、例えば、シナリオの活動とかは話し言葉をずっと書いていって、それだけでもなかなか面白いし、読むのも楽しいと思うんですが、あれはまだ構造のある談話、例えば、はじめ、中、終わりというのは小学校でよく言う作文の構造なんですけれども、そういったものを意識して、もっとそれを接続詞とか接続表現を入れてきちんとした展開の文章にしてまとめあげるという活動に結びつけるためには、あれはプレライティングというライティングの前の活動でも文字を使っている。それを、今度は話し言葉のやり取りを、もう少し話し言葉ではなくてジャンルを変えるという言い方をするとどうかと思うんですが、叙述の文として書くとどうなるかみたいなものを続けていけると、子どもたちが今書けることよりも一つ上の段階を目指すために書かなければいけないことを指導するというような活動につながっていくのではないかなと思いました。もちろん、実際の学校現場では指導時間も限られていますし、なかなか一つのテーマでずっと活動を続けていく、同じ活動として続けていくことは難しいかもしれませんけれども、そこはプレライティングのプレのものを、今シナリオで例を説明しましたけれども、話し合いだけでおさめて書く言葉に結びつけていくとか、もっとサイズの小さいワークシートに書いたものを文章に展開させていくとか、そういうふうに考えれば、今現在書ける力にプラスアルファの書く目標立てをして書かせてみる。それについてやりとりをして、また一つ上の段階の中身、構成につなげていくというような書く活動に進んでいけるのではないかなというふうに思いました。

 

今持っていることばの力を伸ばすために

池上:今回のご発表では、いろんな言語を持っている子どもたちのリテラシーのお話でしたが、もちろんいろんな言語を持っている子も混ざっていれば日本語が十分に使える子どもさんの例も多かったと思うんですけれども、子どもたちの発達段階もありますから、どちらの子どもさんにとってみても、今持っている力の一つ上のものを書くというのは、今持っている言葉の力を伸ばすという意味では必要だと思います。日本語の力自体がまだ十分ではない子どもさんの場合には、そこにもう少し丁寧な手助けを入れていくとか、ワークシートをもっと簡単にするとか、口頭での手助けをたくさん入れて文章につなげていくとか、そうするとできるのではないかと思いましたし、多分やっていらっしゃるのではないかなというふうに思って伺いました。そういう実践があるからこそ、今日のご発表のようなものが皆さんの前でご紹介できる形として残っていて、提示ができたのではないかというふうに思いました。つまり、嫌いにならないことが一番大事なんですよね。どの子どもにとっても。書くことが嫌いになってしまったら、面倒くさいとか、書いても直されるなとか、書けって言われても何書くの?とか、出来事作文を書いてと言ったときに、どうして?先生も一緒にいたじゃない?という話もありましたよね。誰が読むのですかという、それが質問だったと思うんです。そのときは、この授業ではみんな一緒に昨日やった運動会の作文を書こう。何をしたか。大玉転がしの次は玉入れだったこともみんな知っているじゃないか。なぜ書かなければいけないという根源的な問いを小学生が持っていた。つまりは、書くことにちゃんとこういう意味と意義があって、だから、書くことが良くて、だから、書いてみよう。嫌いにならないということが最も大事なんじゃないかなというふうに思って、そういったことにつながる実践報告になったようにお見受けをしました。

 

《齋藤先生》

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実態を何らかの形で可視化して表示していくってとっても大事なこと

齋藤:石野さんの実践について池上さんからお話がありましたので、嶋田さんのご報告についてですが、少し具体的な内容からは離れるかもしれないんですけれども、私は日本でちょっと教育教材に関わることがあります。そのときに求められるのはエビデンスです。「エビデンス」ってちょっとかぎかっこをつけるようなことがあるんですけれども、何かを変えていくというときに実態を何らかの形で可視化して表示していくってとっても大事なことで、それに挑まれていて、やはり私たちは実践をしていく中で、つまりエビデンスに該当するようなものというのを少しずつ周りに働きかけて、そして変えていくということを一人一人が意識していくことが大事だなということを改めて思いました。研究者がやってきて、調査してくれればいいのにと言っても、なかなかそんなふうにはならないですので、皆さん方が、もしかしたらお子さんのことについてつづったものが説得力を持つ場合もありますし、先生として日々生徒さんと接していて、残している記録が説得性を持つエビデンスになることもありますし、あるいは、ここで皆さんが集まっていらっしゃるので、皆さんの力を結集して何か数量的に表せるものを見せていくということも今後、この会で可能なんじゃないかなということも期待して、お話を聞かせていただきました。

 エビデンス(根拠、証拠)

 

池上:ぜひつながっていってください。今、嶋田先生のご発表には、量も大事だけれども、量より質その質を担保するものというのは関係性というふうにまとめられるのではないかなと思いました。関係性というとすごく広くなるんですけれども、多分このあとまたお話もできると思いますので。リテラシーを作っていくにもそれが大事だ、そこを目指して行くんだなということを会の初めからお話していますので、そこに注目して次のご発表を聞いたり質疑応答ができたらいいかなと思います。

 

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社会的存在としての人生を構築し、活動していくための力「リテラシー」を育てるためには、何より伝えたい相手がいること、表現したいことがあることが大切でした。そして、自分を表現し理解することが楽しいと思えたとき、そこから育っていくのだと感じました。それは日常でも、授業でも言えることでしょう。次回の第三回報告では、保護者である発表者からの「就業前の事例報告」と質疑応答、そしてコメンテーターからのコメントを掲載いたします。 

JMHERAT運営委員

 

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