タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会

Japanese Mother Tongue and Heritage Language Education and Research Association of Thailand (JMHERAT)

複言語・複文化を生きる子どもの語り「僕の中にある、日本、タイ、アメリカ」「『一人で生きていけ』それが先生のメッセージ?」」

親と子どもの話を聞こう

―複言語・複文化を生きる7人の語りー

 

2019年8月25日(日)に終了したワークショップの2回目の報告です。今回は、第二部「体験者の話を聞く」セクションのBさんとDさんの語りの様子です。

当日語りセクションでは、どのような語りが生まれたのでしょうか?また、聞き手とはどのようなやりとりが起こったのでしょうか?

 

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「僕の中にある、日本、タイ、アメリカ」~Bさんの語り~

<Bさんの背景:母タイ 父日本>

<Bさんの話のポイント>f:id:jmherat:20190919101928j:plain

 ・移動しても学校が辛くなかったわけ

 ・親や友達と離れてでも来たかったタイ

 ・アメリカが辛かったのは・・・

 ・日系の会社での自分のあり方

 

<Bさんのストーリーと質疑応答など>

 日本で生まれ、5才でタイに移動。小学生の間にタイ→日本→タイと移動し、タイで中学校卒業後にアメリカで高校・大学を卒業、現在はタイの日系ITコンサルタント企業に勤務している。アメリカでの高校時代を大変だった記憶として振り返る一方で、タイ・日本の移動を繰り返した小学校時代は「苦労した覚えはない」「嫌なことはなかった」という。日本での小学校時代には一から日本語を学習し、言語的なハンディキャップがありつつも友達と先生に恵まれた。しかし、その楽しさを手放し、親と離れてでも、「大家族」にあこがれて自らの意思でタイに戻り、また一からタイ語の学習に励む。アメリカへの移動後は、言語のみならず外見や趣味まで「周りの人と違う」感覚に悩んだ。その後、周 囲になじめたと感じた後は、そのままアメリカで大学を卒業、一度はアメリカで就職するが、ビザの問題によりタイに帰国。

f:id:jmherat:20190919101942j:plain 言語・文化圏を移動する子どもは何に支えられ、何に苦労するのだろうか。Bさんは、日本への移動、タイへの移動、アメリカへの移動のいずれも、言語的に大きなハンディキャップがある状態で過ごしたが、日本・タイでの小学校生活では苦労を感じなかった。その一方で、アメリカに移動した当初は苦労の多い毎日だったという。その理由として振り返るのは、日本・タイでは友達に自然に受け入れられたのに対し、アメリカではその社会に身を置きながらも「周囲と違う自分」をたびたび意識させられる出来事があった、ということだった。

 タイ国内の日系企業で働く今、職場で発生する業務上の問題には、日本とタイの仕事についての考え方の違いが深くかかわっていると言う。日本・タイ・アメリカへの移動経験を持ち、複文化的な考え方のできる人間としてITコンサルタントに従事している。

 

Bさんのストーリーを聞いた後で行った2セクションでの質疑応答の中で、印象的だった質問をご紹介します。

 

印象的な質問①

「(移動のたびに、その先で)何人として見られるのか?」という質問。Bさんは「タイではタイ人として見られ、日本では日本人として見られた。アメリカでは、アメリカ育ちではないアジア人という目で見られた」と答えました。その例として、Bさんは、アメリカ時代の服装の話を挙げました。「同じアジア人でも、アメリカで育った人というのは、服装だけでなんとなくそれがわかる。服装だけでアメリカ人ではないと悟られ、店の人の態度が悪くなるということもよくあった」とのこと。社会の正統的なメンバーではないと見なされることによって、「自分とは何者なのか」という問いを突き付けられる。Bさんが自身をとりまく関係性の中で味わったものが、決してことばの巧拙といったレベルにとどまる問題ではないということを、聞いていた誰もがその時改めて理解したと思います。

 

印象的な質問②

日系企業では、日本語・英語・タイ語の3言語を使える人という期待を受けているのか?」という質問。これは、ファシリテーターの私も気になるものでした。意外にも、Bさんの答えは「実のところ、そういうわけでもない」というものでした。「そもそも、日本語と英語とタイ語が話せる社員は、職場ではそこまで珍しいわけではないんですよ」と、こともなげに言っていました。

 移動の経験を持つ人にとって、さまざまなことを複数の言語で遂行できるという点は確かに非常に大きな強みだと思います。ただ、Bさん自身は、少なくとも自分の仕事について、複数言語の話者であることがそこまで重要なことだとは思っていない様子でした。私はつい、複数の言語で仕事ができることを、さながら何かの特殊能力であるかのように思ってしまいます。しかし、むしろ今のBさんは、移動も含め、これまでの人生で培ってきた思考能力や感性そのものが仕事に生きているのであり、それを自分で肯定的に捉えることができる状態にあるのではないか、とこの一連のやりとりから想像しました。

 

 2回とも誰もがメモをとりながら熱心に聞き入っており、Bさんの経験談に参加者からの感嘆の声が何度も漏れるような30分でした。ファシリテーターの私自身も、Bさんの穏やかな雰囲気での語りの中に、(「3つの言語を使いこなせる」といったこと以上に)複言語・複文化的な能力がはっきりと感じられたひとときでした。(ファシリテーター・千石昂)

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「『一人で生きていけ』それが先生のメッセージ?」~Dさんの語り~

<Dさんの背景:母タイ 父日本>

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<Dさんの話のポイント>

・幼稚園で初めて出会った日本語の世界

・小3で感じた勉強の困難さ

・「一人でも生きられる」に対して今思うこと

 

タイで生まれ、1歳の時に父の仕事の都合でフィリピンへ。2歳でタイへ戻り、地方の幼稚園を経て、バンコクの日系幼稚園へ転園。そこで初めて日本語がたくさん話されている世界と出会う。言葉に困難さを感じたが、ダブルの友達ができて乗り越えた。小中学校では友達からダブルというだけで悪口を言われたり避けられたりしたため、あまりいい思い出はない。小3の頃の勉強で、理科は分かるが、国語や算数では特に文章問題になると理解が困難だった。小6の始業式後に行われた教室活動で友達とペアが作れなかった際、担任に「今一人で立っている人は、一人でも強く生きられる」と言われ戸惑う。中3では友達に恵まれ楽しい学校生活を送る。卒業後、通信教育の高校へ。

 

f:id:jmherat:20190919101935j:plain2回のグループセッションには、ダブルのお子さんを持つ保護者や、ダブル当事者である中高生、そして教師がともに集い、Dさんの話に耳を傾けました。そして、学習の困難点、学校生活における環境、友人や先生の意味について再考しました。以下、質疑応答の一部を紹介します。

 

質問:「一人でも生きていける」という言葉は、結果的に自分にとってよかったんでしょうか。それとも、悪かったんでしょうか。また、今考えたら、やっぱり先生の言う通りだったなとか、消化できているんでしょうか。

Dさん:先生に言われたときは「え?」と思ったんですが、今思うと、結果的にプラスになっています。親戚などの中に人に依存しすぎて自分がやるべきことをやらない人がいるのですが、そのような人にならなくてよかった、一人で生きられるような人でよかったと思います。でも、今、通信教育の課題をしていて、たまにわからないときがあります。そのときはやっぱり誰かがいたら楽だなと思うこともあります。

 

質問:学校の先生に、してもらえたらよかったと思うことは?

Dさん:中2のときにクラスの人がタイの悪口を言ってきたので、怒って先生に言うと、「今まで我慢してきたんでしょ。今回も我慢しなさい」って言われたんです。せめて気持ちに共感して「つらかったね」「我慢したんだね」とか一言でもいいので言ってもらいたかったです。

 

質問:子どもを言語面の問題があってサポートできないとき、どうしてほしいですか。

Dさん:(今年3月の)ワークショップでリテラシーがテーマだった時にもその話題が出ていましたね。やっぱり親はそういう状況にあうと、すごく気まずいと思います。私が親だったらどうしようかと考えてみると、とりあえず「ごめんね」って言って、寝ようかと(笑い)。勉強に関してはしょうがないと思います。でも、子どもが友達関係で嫌な目にあったときは、子どもがそう望んでいない限り「言い返しなさい」とか、「学校に言ってあげるから」と言うのをやめたほうがいいと思います。言い返せないからお父さんやお母さんに相談しているんです。できればそういうことを自分の子どもにやらないようにお願いします。

 

質問:自分が一番居心地がいい場所や人は?

Dさん:人であれば、自分のお父さんと、もう一つはハーフの友人です。嫌なことがあったときにハーフ同士では分かり合えることがあるので、やっぱりハーフと一緒にいるときが楽です。または、ハーフじゃなくても、例えば、いろんな国に行って仕事をして、壁にぶつかってきた人もいいです。

 

質問:高校卒業後の将来について、どう考えていますか。

Dさん:これからどうするのかもまだ決めていませんし、何をやりたいのかも分かっていません。今できることをして、その道にとりあえず行ってみようと考えています。

 
 過去をふりかえりながら話す中で、時々昔の気持ちを思い出しているのか、言葉に詰まるDさん。それを温かいまなざしで見守り、少しでも子どもの気持ちを理解しようとしている参加者の様子が印象的でした。セッション終了後、ある聞き手は「Dさんは今いろいろなことを感じている途中なんだと思いました」と感想を寄せてくれました。Dさん自身は「当時つらいと思ったことが、今思うとそうでもないなと思ってきています。なぜそうでもないように感じてきたのか、自分で自分のことが気になりました。」と気づきを共有してくれました。

 今回のセッションを作り上げるために、私はこれまで何度かDさんから話を聞いてきました。「一人でも生きていける」というストーリーを初めて聞いたとき、私はDさんがその体験をまだ消化しきれているようには感じませんでした。しかし、今回のワークショップで2回目の語りを終えたあと、その経験をプラスに捉えはじめていると「語りの変化」が起こりました。今、Dさんはこのワークショップでの活動報告を高校に提出する課題としてまとめているそうです。繰り返し語り、自己をふりかえる中で、またさらに新しい気づきや語りの変化が起きるのかもしれません。今回の語り手の中で最年少の16歳。これからの成長を見守り、私も共に学びを続けていきたいと思っています。(ファシリテーター・村木佳子)