タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会

Japanese Mother Tongue and Heritage Language Education and Research Association of Thailand (JMHERAT)

2017年9月ワークショップのご報告

みつめよう子どもの姿、考えよう子どもの現実

 タイで育つ子どもたちを新たな豊かさへ繋げる 複言語・複文化の視点 第4弾

 わたしを描く
 ―言語マップで何が見えるか―


2017年9月3日に終了したワークショップの内容をこれから4回に分けて報告します。
当研究会では舘岡洋子氏をお招きし、2011年から複言語・複文化ワークショップを開催してきました。今回はその第4弾。子どもと保護者と教師が初めて一緒に体験するワークショップになりました。第4弾では、これまで作成してきた「言語マップ」だけでなく、自身の「言語ポートレート」を作成するという2つの活動を行いました。
*本WSの一部は、科研(B)「言語的文化的に多様な子どもたちのパフォーマンスアートに媒介された学習活動の研究」(代表 石黒広昭)の助成を受けています。


■ワークショップ・当日の活動の流れ

12:00開始
・複言語・複文化とは
・参加者全体自己紹介
12:20言語マップ活動
1 自分マップ作成+「大変さ」シール貼り
2 ひとりひとりマップ・「大変さ」の解説
3 大変だったことをポストイットに書き出す
4 壁に貼り出して全体共有
13:55私たちの複言語(複文化)性
14:10休憩(壁マップの共有・交流)
14:25言語ポートレート作成
1 作成
2 自分のポートレート紹介
3 壁に張り出して全体共有、話を聞きたい言語ポートレート選択
4 全体発表
15:45・私たちの複言語・複文化性
・複言語からトランスランゲージングへ
16:00複言語・複文化という価値
16:20今後に向けて
16:30終了

■会場の様子



■感想

  • (二つのワークをやって)“ハーフ”ではなく“ダブル”であることに実感させられました。ハーフとしての葛藤を乗り越えた時に来るプラスに気付けるワークで、もっと自分に自信が持てるようになりました。自分のアイデンティティをわかっているつもりでしたが、このワークショップに参加したことで、より自分自身の中で消化しきれていなかった部分を明確にすることができました。まだ国際児として恥ずかしいと思う時がありますが、トランスランゲージングの考え方をしったことによってより自分自身に自信が持てそうです。(子ども/大学生(日本在住))

  • 今回は自分のことしか考える余裕がなかったですが、自分の中の言語がどのように構成されているのか”可視化”されて新しい発見が多かったです。同じことを日本に住んでいるダブルの子どもたちにやってもらうとまた違う結果が生まれるだろうと思います。自分の大学でも実践してみたら面白いと思いました。(教師)

  • トランスランゲージングという言葉を初めて聴きましたが、自分の子供もハーフ/ダブルとしてではなく、モノリンガルの人たちよりも豊かなリソースがあるということを知ってもらいたいと思いました。自分の子供(小学生)にやってみたいと思います。自分と生まれ育った環境が違うので、子供の心理がとても知りたいです。(保護者)
  • I've never join the event like this before and it's interesting. I want to practice more so I can know. I'm proud to be half. Today, everything goes well. I think it's interesting and I think I want to join again.(子ども/大学生)
  • 今、子供達が持っている複言語能力自体が彼らの能力であり、生きてきた集大成であり、これから生きていくためにツールであるのだということは、新しい世界の在り方だと思います。世界がひとつになっている中で、この言語に関しての新しい考え方は大事だと思います。是非、3人の子供たちとシェアしたいです。(保護者)
  • これまで「バイリンガル」ということばや「複言語」ということばは、両親のどちらかが一方と異なる言語・文化である人が対象だと思っていました。でも、今日自分の言語マップ、言語ポートレートを描いてみて、自分もやはり当事者なんだということに気がつきました。今、私が担当している授業にダブルの学生が3名います。まだ学期が始まったばかりなので、これから関係を築いて、今日行ったマップやポートレートを是非実践してみたいと思います。(教師)
  • 豊かな人生を生きるということについて改めて考えさせられました。他の方々の言語マップや言語ポートレートを拝見したことも大変興味深く、自分自身や子供のことを見直す上でのヒントになりました。(教師/保護者)

2017年9月ワークショップのご案内

みつめよう子どもの姿、考えよう子どもの現実

 わたしを描く
 ―言語マップで何が見えるか―

9月3日(日)に複言語・複文化ワークショップを開催いたします。
2011年に始まった複言語・複文化ワークショップの第4弾です。これまで、言語マップ、違和感のドラマ化、関係性マップなどを通じ、複数の言語と文化の中で生きるとはどういうことか考えてきました。今回は2011年にみなさんと描いた言語マップを再び取り上げます。
4回目のワークショップである今回は、当事者である子どもたち自身にも参加してもらいたいと思います。中学生以上の子どもさん、すでに成人された子どもさんにも声をかけてください。親、子ども、教師がそれぞれの複言語・複文化状況を知り、このワークショップ後の活動も一緒に考える会にしたいと思います。

開催要項

テーマ わたしを描く
―言語マップで何が見えるか―
講師 舘岡洋子氏(早稲田大学大学院)
日時 2017年9月3日(日) 12:00〜16:30 受付開始11:30
会場 泰日経済技術振興協会日本語学校
通称 ソーソートー(スクンビット、ソイ29)
定員 30名
参加費 200バーツ(中学生以上のお子さん:無料)
締め切り 8月25日(金)
申込み こちらの申込フォームからお申し込みください。
問合せ JMHERAT[@]gmail.com ※送信には[ ]を外して下さい。

第13回セミナー第3部「親としての経験」

みつめよう子どもの姿、考えよう子どもの現実

 子どもを育てる、ことばを育てる
 ―子どもが自信を持って生きるための言語活動実践―

4回にわたってブログに掲載してきましたセミナー報告も、今回の第3部で最後になります。
コメンテータの石井先生はご自身が国際結婚で2児の母親でもあります。セミナーの最後に石井先生から親としての立場からお話しいただきます。石井先生の子どもさんは二人ともすでに成人していますが、先生はいったいどんな経験をしてこられたのでしょう。


家庭環境について
私の夫は韓国出身で、大人になってから日本に来たんですが、どうも日本語と相性が良かったみたいで、非常に日本語の能力は高いです。子どもは2人いて、上が女の子で、3つ違いで下が男の子です。私は家庭の中でそれなりにうまくやっていけば、そんなに苦労しないバイリンガルは可能かなというぐらいの気持ちでしたが、ある時、ハッと気が付いたら、夫が日本にいる間に、韓国語話者じゃない人に韓国語を話すことができなくなっていました。韓国へ帰国している間はずっと韓国語なんですが、日本の空港に着いた途端に、なぜか日本語にスイッチしてしまうんです。子どもたちに韓国語で話しかけているものと思っていたら、ほとんど全て日本語になっていて、そのたびごとに、「韓国語!」と私が言うと、韓国語になるんですが、あっという間に日本語に戻って…それをずっと繰り返していました。私もずっと働き続けていたので、子どもたちは保育園に入れましたが、保育園の中は丸々日本語で、子どもの韓国語自体は日本語と比べて、明らかに弱い状況でした。

韓国の親戚とのつながり
ただ、小さい時、お正月とか夏休みとか時間がちょっと取れる時は、1週間でも韓国へ行って、向こうの親族といろいろコミュニケーションをとったりするという経験をさせていました。運がいいことに、3つから5つ上の年齢に男の子2人と女の子2人のいとこがいたので、その子たちと本当に楽しく遊んでいました。親のことは見向きもしないで、そのいとこたちと遊ぶぐらいで、韓国語を覚えたかなと思って、一緒に遊んでいるのを見たら、その韓国のお兄ちゃんお姉ちゃんの方が、日本語で「貸ーしーて!」「ちょっと待って!」と言っていたんです。要するに、傍若無人な私の子どもたちにちゃんとわかるように言わないと、好きなようにされてしまうので、そのいとこきょうだいがさっさと日本語を覚えてしまったようです。ただ、やっぱりそういう仲のいい子と1週間丸々一緒にいたりすると、例えば、娘が、「いとこのお姉ちゃんがお母さんのケータイ、きれいな色だねって言ってたよ」と言ったことがありました。「あっ、そういうこともわかるんだ!」と思いました。息子も、いとこ2人のお兄ちゃんと本当に仲良しなんですが、気が付いたら、この子たちは言語活動をほとんどせずに、かくれんぼしたり…要するに、犬がじゃれ合っているような状態でコミュニケーションをずっとしていたので、息子の方はむしろ4歳ぐらいまでの方が、韓国の人に「何歳?」と聞かれて答えるなど、パッと聞いてパッと韓国語で答えられていました。
でも、息子はだんだん自分の日本語力が高くなってくると、同じように言えない言語は使わないという風に自分の中でなったようでした。私は残念な気持ちがとても強くて、いろいろ考えたんですが、私自身がそれを打開する能力がないと思いました。私の韓国語は、一人で出張に行った時にはなんとか乗り越えられる程度のもので、やっぱり、豊かに子どもたちに話しかけるというまでの力は全然ありませんでした。訳のわからない片言の韓国語でやることはナンセンスであることはわかっていましたので、その段階で、韓国語が自然に育つのはちょっと無理だとあきらめました。でも、その代わり、やっぱり、韓国にも自分たちをそのまま受け入れてくれる、親族、コミュニティがあるんだと、その気持ちはできるだけキープしようという意図で、向こうとの関係は保とうと努力していました。

息子と韓国語
一番韓国語力が低かったのが息子でした。ずっとこのまま韓国語ができないままいくのかなと思っていたら、高校に進学する段階で、やっぱり息子なりに、自分が一番韓国語ができないし、いとこたちとコミュニケーションがとれないとまずいと思ったのではないかと思いますが、突然、韓国語が勉強できる学校に行きたいと言い出しました。それで、韓国語のコースのある高校に入って、3年間読み書きもきちっと学んだら、私は追い越されました。私が一番悔しかったのは、発音が全然違うことです。私がいくら一生懸命発音しても、韓国の人に何のことかわからないって言われるのを、息子がふっと言った瞬間に「あー!」って返事が返ってくる時、とても悔しかったです。(笑い)

強制ではなく本人の意思
子どもが育っていくという時に、いろんな環境とか、親の力の問題もありますけれど、思うようにいくとは限りません。私自身、自然にバイリンガルになれる状況があれば、どんなにか良かっただろうとは思いますが、2つ以上の言語をバックグラウンドに持つ子たちが、みんなバイリンガルに育たなきゃいけないという風に思うだけで、たぶん、例えば、うちなんかの場合、すごく不幸なことになるかもしれません。よく考えると、私は何か不満があるかというと、家庭の中で毎日過ごしていると、とても楽しいし、この子たちは韓国に行くと、すごく幸せそうで、韓国に行くことがとても嬉しいって言っているので、これでまずはいいんじゃないかという風に思っていました。すると、息子が韓国語やるって言い出しました。言葉の力をつけていこうとする時に、どんなに周りが強制してもできなかったことでも、つながりというものの中で、自分がどういうコミュニケーションがしたいか、誰とつながりたいか、どういうレベルでつながりたいかを意識することで、「ああ、こういう風になるのかな」という風に思ったんですね。

娘と韓国語
上の娘の方は弟よりはずっと韓国語がわかりました。ただ、全然十分ではなくて、むしろ、弟が高校で頑張って追い抜かれ、かつ、読み書きは非常に不得手でした。彼女は実は声優という仕事を選んだんですが、それで、結構韓流のドラマとかの仕事も回ってくるんですね。一応、その元の韓国語の原稿と翻訳された実際に読む原稿があるんですが、やっぱり聞いていて、どうも日本語ちょっと不自然だと思ったものを、ちゃんと自信を持ってなんとかできるようにしたいと思い出したらしくて、1年ぐらい前に、韓国語のちょっとフォーマルな学習をするから、テキスト選ぶのを手伝ってくれないかと言われました。

忘れられない夏休み
私の例は全然、世の中に言う大成功のバイリンガルの家族の話ではありません。言葉というのがその人間にとってどういう意味があるかということを、親であっても、強制したり、決めたりすることはやっぱりできないんだなと思います。さっき言ったような、やりたいことしか絶対やらない息子がいたために、どんなに親がこうやろうと思っても、びくともしないという…子どもであってもそういう意思があるんだということを、親としては学んだわけですね。
これは別に韓国語だけじゃなくて、日本語を使っても、どういうことを日本語でやりたいと思っているかということにも影響があります。息子は作文もずっと書かなくて、文が書けないのかと心配していたら、4年か5年の時に児童会の書記を任されたら、その記録はちゃんと何ページにもわたって書いたと聞いて、「あ、文が書けないんじゃないんだ」とその時に初めて思ったんです。
でも、もうちょっとして、中学の夏休みに読書感想文の宿題が出て、息子が書いた文章のあまりの貧しさにがっかりしました。下手とかそういうのじゃなくて、とても短いし、何も伝わらない文でした。つまり、伝えたいことがなかったんですね。ですが、あまりにもがっかりしたので、私はその時、「中学生になってもこんなもんか。これ、こういうの読んだでしょ?このこと、どういうこと書いてあった?」とか言ったんです。息子は「そのことってどういう風に表現したらいいわけ?」と言いながら、多少、体裁が整った風に見えるものを書いたんですけれど、その出来上がりを読んだ時に、全然彼の気持ちとかけ離れた、こうあった方がいいよねという言葉の羅列の文章になっているっていうことをまざまざと見せられて、私は本当に心底反省をしました。これはほとんど暴力だなって、私自身、本当にあの時ほど自己嫌悪になったことはないんですが、無理やり、こういう言葉を自分から出しなさいということは、たぶん人間として一番やってはいけない暴力かなと思いました。つまり、思想信条とまで大きなことではないとしても、息子が感じたこと、息子が伝えたいことを無視して、こういう形で出すものでしょっていうものを書かせてしまって…母親として今までの子育てであのことは一生忘れないだろうなって思います。
やっぱり親が子どもにかかわっていく段階で、なんとなくいろんなことを学ぶ…子どもから学ばされるという経験をしました。
そんな風に好きなことしかやらなかった子も、去年の4月に一応、大学を終わりまして、運のいいことに、自分が行きたい、やりたいって思った仕事に今就けて、とっても楽しく毎日を過ごし、週末は海釣りに先輩に連れて行ってもらい、釣った魚は刺身と天ぷらにして…。そういうやりたいことがあればいいのかなと思います。

今、思うこと
最初、子どもが生まれた時に勝手に思ったこととは全然違うありさまですが、たぶん成功とか失敗とかというのは人間の尺度にははまらないと思います。その時その時に自分が今の状態をどう思うかはそれぞれですが、それはやっぱり、自分が一日一日生き続けていく中で、同じじゃなくて変わっていくのだと思います。自分のことを振り返る時に、自分の中で自分に向けて語りますよね。そういう時にどういう言葉で自分は自分のことをよく語れるか、あるいは、誰かとかかわりたい時に、この人とはどの言葉ならかかわれるか、ちゃんと伝わるかというようなことが、うまく練っていけたらいいのだと思います。世の中的な到達度も、どこかではもちろん力になるもので、無意味だとは思いませんが、そのことがその人のあり方を規定するものではないんじゃないかなという風に、最近、子どもたちを見ていて、自分自身が本当にその辺で納得したと言いましょうか、楽になったと言いましょうか、そのように感じています。

第13回セミナー1/2部まとめ「ことばを育てる言語活動実践まとめ」

みつめよう子どもの姿、考えよう子どもの現実

 子どもを育てる、ことばを育てる
 ―子どもが自信を持って生きるための言語活動実践―

2017年3月6日に終了したセミナー内容の3回目の報告をします。今回のセミナーでは子どもにとっての体験の大切さが報告されました。そこで、1/2部まとめとして、日常の中の体験とことばについて考えたいと思います。
だれのどんな日常にもある体験をどう言語活動にむすびつけたらいいのか。日常の中の体験を、体験としてどう考えたらいいのか、池上先生に口火を切っていただきました。

日常の中の体験とことば
池上:キャンプ体験がありましたが、そういう体験でなければいけないということではありません。例えば家の中で家族と過ごしていても、いつもと違うことをちょっとして、それはどうだったのかそれは何だったのか、それについて今日は誰に伝えようか、そういう風に一つ段差をつけてあげる、そこの中で体験が意味のある体験になる。ただの体験ではなくて、意味のある体験になる。言語生活はそれぞれであって、お料理すると言ったら、お料理するだけで終わりでなくて、その手順についてどうだったのか、お手伝いでやったことがどうだったのか、語り合うことができるかどうか、それは何語で行うのか、それを行った結果、誰に伝えるのか、そこでまたどんどん課題が見つかってくると思うのですが、そのように考えていただければ、体験が言葉に繋がっていくと思います。段差というのは、できること、ちょっと難しい事とか、いつも使っている言葉とちょっと違っている言葉とか、そのように考えると言語活動に繋がっていくと思うのですが。
深澤:いつもやっていたことに、お母さん自身どうやっていたのかなと思うことが段差になりますね。
石井:ある日本の親子教室の例ですが、親子でホットケーキを作りました。作る段階でもいろいろ計って作りましたが、作り終わった後にも計量器を持ち込んで、自分が選んだホットケーキがどれくらいの重さなのか、自分で計りました。大きいのを選んだ子どもも、軽かったら変えてもいいことにしたら、子ども達は必死に目盛を読んでいた。ですけれども、家の中に計りというスケールを見たことがない子や、日常の中で計るという行為を見たことがない子どももいます。学校に来て教科の中で初めて単位とかに触れたときに、家の中でそのような体験があるかどうかで、ものすごく違いがある。どこかで経験することがものすごく大きな違いがある。アイスクリーム(作り)体験の時、塩を入れた瞬間、0より下にメモリが落ちたことで、初めてマイナスという温度があることを実感したということがあります。アイスクリームはつくらなくてもいいですが、今まで家の中で全部親がやっていたことを、一緒にやってみるとか、こういう経験をしたら子どもが驚く、刺激を受けるということを親たちが知ることが重要です。


日常と学習言語をどうつなげるか
池上:よく教科で使う言葉と家で使う言葉が違うということを言うんですが、教科で使う日本語は必ずしも教科の専門用語だけではないのです。目盛を読むとか計るとか日常のことばです。算数の文章問題には目盛以外にも、「オフロにお水を入れる、止める」などと書いてあります。算数の用語というよりも、日常の用語なのです。「○○を作る」とかそういうことは日本語だけで生活している子どもは日常の積み重ねで身についていることです。しかし、そうではない子どもは因数分解など難しい言葉ではなく、日常的な言葉でつまずいたりするということがあります。語彙の研究などしていますが、複言語で育った子どもの中には日常的な言葉でつまずいている場合があります。ではどうすればいいのか。ではこの語彙を教えようではなく、どうすれば生活の中でその語彙がその子どもにとって意味ある言葉として、大きくなる中で誰かと使っていけるか、ということに尽きるのではないかと思います。それが「体験」ということとの繋がりだと思います。


体験とことば:子どもの言語発達のステップを考えながら
(図を見ながら解説)

【ことばの発達のステップ】
石井:生まれてから幼児期のころは子どもは生活の中で個人的なやりとりを通して、その子にとって必要な言葉を学んでいます。赤ちゃんにごはんをやっているとき、黙ってやっている人はいません。「ごはんたべようねえ」「マンマおいしい?」そういう言葉の中から、ことばと体験はいつも一致して与えられるということを十分やっていくと、外界の体験が音の塊と合致した体験とどんどん吸収されていく。そのように最初のことばの学習はその子が今必要としていること、あるいはその子に声をかけたいという具体的な状況の中で個人的な体験を学びとして言葉を覚えていく。これが基本。これは大人になっても同じ。突然ある言葉が学ばれるわけではなく、ああこのことってこういうんだ、これってこういうんだとそのことに出会ったとき、そのものに触れたとき学ばれていく。言葉だけではなく、言い方もずっと学んでいくことになります。
学齢期になると、かなり組織的体系的に、言語情報を繰り返し教えるということがよくあります。そういう学び方も実体験の中で繰り返し、繰り返し体験するのではなく、組織的体系的に整理したことばのあり方になります。国語が中心ではありますが、各教科でも同じで、その教科特有のことばを学んでいくことになります。その段階では話し言葉が基本ですが、おしゃべりの言葉というのは、ことばの情報以外、相手の顔色、声色などから意味をとっていくわけですが、学校の話し言葉とは質が変わってきます。たとえば整理して話さないといけない。「私は〇〇についてこうだと思います」というように、話し言葉でも違う、どちらかというと書き言葉に繋がっていくような話し言葉が授業の中で起こってきます。
やりとりではなくて、まとまったことを一人で完結させると言語活動が入ってきます。それをたっぷりやっていくと書き言葉にも馴染みが出てきて、書き言葉の質が上がっていく。日常のおしゃべりをいくらしていても、そういう形はでてこない。日本に来た外国人の子どもが日常的にペラペラ喋れても、教科書になると全然分からないということがよくある。ことばの言語活動の質が非常に違うので、ペラペラ喋れる力がついたということがそのまま書き言葉に繋がるわけではない、ということです。
ある程度の年齢にくると上の段階に行くための、リテラシーは読み書き能力ですが、これらのことばを学ぶための準備が始まってきます。それがプレリテラシー。たとえば、文字の世界。文字というのは、一つ一つ順番に覚えたら読めるようになるというイメージを持っている人がいると思いますがそんなことはありません。子どもは自分の名前の一文字から覚えたりします。いろいろな物に書いてあるあるもの(名前の文字)が友達とは違うことを見つけ、これは自分だとわかりそれが自分を表す文字だとわかってくる。そうやって、文字を覚えていきます。


読むという行為、書くという行為の価値がわかること
それよりもっと前に、字が読めないのに「本を読む!」と言って本を読んでいる子どもがいます。それは本を読むという行為をしているんです。字を覚えたから本を読むのではなく、本を読むという行為を先に覚えるんです。本を読む人は、たいてい自分にとってとっても優しくて、大好きな人が、自分が喜ぶこととして本を読んでくれる。それを何回も見ているうちに読むという行為がわかってくる。字は読めないけれども、文字を読む行為に価値があると分かって、読むのですね。
書くという行為も同じです。子どもが「手紙を書いた!」というけれども、実は字が書いてなかったりする。文字ではないのです。それは書くという行為に意味を見出して、書くという行為を真似するのです。それが価値があると思うから真似をするのです。それが重要。そういうことを学んできている子どもは学校で文字を習い始めたときに、「あ、読める」ととても喜んで学習が進む。でも家に文字がない場合もあります。言語によっては、そのことばの子ども向けの本が出版されていない場合もあります。経済的な理由で買えない、親自身も識字能力がないなどいろんな場合があります。でも本じゃなくてゲームや、忙しくてそこまで意識が向かないなど、日本人の中でも、新聞もとっていないなど、文字が家の中に無いというケースがあります。タブレットで何か読んでいたとしても、それは何かを読んでいるように思えない。そうすると子どもが学校に行くまで読むという行為を学ばないということが出てきます。文字を読めるようになったら嬉しいという子どもは、喜んで文字を学びますが、そうでない子どもは文字を一ずつ学んでも喜びに繋がらないし、家に帰って本がない子どもは学校で学んだことを繰り返すということもしないので文字学習はなかなか大変です。むしろ漢字の方が意味や形で覚える。家に帰っても活字がないと繰り返し学ぶというチャンスがないのです。
もし字を教えてもなかなか身につかない場合、文字そのものをぎゅうぎゅうやるというより文字の世界に誘う活動がいいのではないでしょうか。ある先生が大きなかぶの本を「うんとこしょ、どっこいしょ」をみんなと一緒に声をだし(文字が定着しない)子どもを膝に抱いてやって、読むことは楽しいという経験をしていったらぐっと伸びたといいます。
親や教師は、文字を学ぶという時にパーツパーツを教えるということは、特に小さな子どもにとってはとても乱暴なことです。楽しい活動でなければ嫌いになりますよね。もう避けたいとなってしまったら、おしまいです。なにより楽しく、発達の段階に沿った支援が必要です。

第13回セミナー第2部「様々な活動紹介」

みつめよう子どもの姿、考えよう子どもの現実

 子どもを育てる、ことばを育てる
 ―子どもが自信を持って生きるための言語活動実践―

2017年3月6日に終了したセミナー内容の2回目の報告をします。今回は、第2部の「様々な活動紹介」の発表概要、質疑応答とコメンテーターからのコメントを掲載します。


◆発表概要

●ことばが生まれる体験
   ……………………………谷口輝明(The American School of Bangkok 日本人幼稚園)
キャンプ紹介
今日は、このキャンプの活動の紹介とその活動が子どもたちの言葉の発達に影響を与えているのか考えてみたいと思います。キャンプの活動をスライド写真を見ながら紹介させていただきます。キャンプは、主に土日1泊2日で行われています。

キャンプ日程
〈1日目〉
09:30 バンコク集合 出発
11:30 シラチャー着
      昼食
13:00 フェリーでシーチャン島へ
13:50 シーチャン島着
14:30 ビーチで遊ぶ
      スイミング、カヤック、つり、砂遊び、
      スキンダイビングビーチサッカーなど
18:00 ビーチパラソルの下で夕食
      花火、星観測、潮干狩りなど
21:00 歯磨き 就寝



〈2日目〉
07:30 朝食 島探検 (登山)
12:00 フェリーでシラチャーへ
      カヤックに乗って釣り
13:00 昼食
15:00 シラチャー出発 
17:00 バンコク
      活動報告
      解散


島探検で山登り。頂上は360度地球を見渡せます。地球がまるいことを実感。

   
市場に買い出し。みんなでクッキング。生きたかにを蒸し器に入れます。お好み焼きやカレーを作ります。

キャンプの仲間と寝食を共にし、いろいろなことを体験しました。
夜のお楽しみ会で子どもたちで考えた劇を発表したり、朝食を食べながらその日の活動内容を話し合います。
キャンプのルールとして電子機器の持ち込みは禁止しています。そのためか仲間との会話も多く帰りのバスの中でもしゃべりっぱなしでした。

キャンプに参加する仲間とワクワクドキドキの活動体験を共有したい、人に伝えたいという気持ちから言葉は成長していくのではないかと思います。


●言語よりことばー繋がりと関係性を優先して
   ………………………………………文殊寺恵美 / 角田麻美 / 藤井美由紀(日本人学校
2013年より少人数での日本語支援教室が発足しました。就学前までは家庭の中で様々な生活言語に触れて育った子どもたちが、就学するときには、どの言語で学習するのか選択することになります。学習での言語力を高めるためには、その土台となる生活の中での「ことば」を広げる必要があります。そこで、私たちは日本語支援教室の中で、子どもたちに小さな初めての体験をしてもらったり、それを今までの体験と重ねながらつなぎ合わせて、「ことば」の広がりをサポートしています。しかし、子どもたちによって言語環境は様々で、その子に合ったよりよいサポートの仕方も多様です。そのため、教室の中だけでは限界もあります。だからこそ、家庭と学校が協力して、子どもたち一人一人の「伝えたい」「話したい」という気持ちがのびるきっかけを与えています。
どの体験や活動がその子にとって良いのか正解は常に分かりません。ただ、より多くの人がその子を思って自分の1番自信のある「ことば」で関わり続けることが子どもたちの中に「つながり」を作り出し、子どもたちの中に「ことば」が積み重なっていく瞬間を実践から実感しています。


◆質疑応答

質問:日本人学校の先生方に質問です。日本人の子どもがひらがなや漢字等を勉強している他に、タイ語をベースとしたお子さん達へは特別にどのような指導を具体的に行っていますか?
回答:日本語指導の教室に来る子たちへは、特に発音(「す」と「つ」や「し」と「ち」等)を重点的に確認しながら進めています。

質問:2年生が「1年生に教えたい!」「作文を書きたい!」と言った学生の作文を読んで感動したと仰っていましたが、その作文を読んでみたいです。どんな作文でしたか?
回答:その子は1文しか書けないような子でした。文章の完成度は立派なものではなかったかもしれませんが「先生、すごくドキドキしたよ!」「(今までしてきた練習が)できたよ!」という喜びが伝わってきました。


◆コメンテーターより

〈石井先生〉
(活動紹介1)キャンプ
あまりの体験のすごさというんでしょうか、これだけですごいなと思いました。学校的な文脈だと、楽しいことをやったあとに、さあ、感想文を書きましょうとなると思うんですけど、そういうことはやらさないほうがいいなとつくづく思いました。
例えば、小学校時代にどんなことがあっても作文を原稿用紙半分以上書いたことがないという子がいて、文章が書けないのかって心配するほどだったんですけど、大体学校文脈って、みんなで楽しくやったことについて作文を書きなさいって言われますが、「みんなでやったのに、みんな知ってるじゃん、何書くの?」って。運動会も、「昨日は運動会だった。玉入れをやった。面白かった。」それでおしまいなんですね。それ以上書くことないのって言うと、いや楽しいことはいっぱいあったんだけど、みんな知っているし、先生もいたし。っていう、そこからびくとも動かない。その楽しいという気持ちを、書きたいという、さっきの2つめのお話では、伝えたいっていう相手がいたので、文字にする必要性が本当にあった。自分自身のためにも書きたいというのがあったと思うんですけど、あんな見事なダイナミックな活動なので、あんまりそういうことはやらないほうがいいです。
ただ、Facebookに載せている写真は谷口先生が撮られたものですよね。あの写真を見た時に、あの写真の見事さはちょっとほっとけないです。子供達の本当に楽しかった気持ちは、あそこにでているっていうのは、見ていてわかります。だとすると、あれは作文という形で先生に提出するものではではなく、自分たちの親にも「こうだったんだよ」と見せたい写真のはずですよね。写真のひとつひとつをFacebookに載せるときに、例えば、その写真に1行でいいのでキャプションを入れていく作業をすると、言葉にして発信する楽しさに繋がるのではないかと思います。作文を出すのと違って、あの体験をしたあとだと、親や友だちに見てほしい、そしてFacebookにきちんとアップされるという最近の子供達だからこそ可能なツールがあります。作文用紙に書いて先生に提出しても、それはあまり魅力ではないと思います。あの写真があるからこそ、ひとことでも意味をもって伝わるし、そのひとことがこの写真をさらに良くするということが実感できます。豊かな体験を邪魔しない、だけど、その気持ちを外に出す手段をちょっと工夫すると、言語的な発達にも繋がると思いました。

(活動紹介2)日本人学校
体験を重視して、そういうことを言葉として重ねていくという事例。
四季を考えた時に、我々日本語教師がやってしまいがちなことは「日本の四季はこうだ」「日本人はこう感じる」ということを定型的に教えてしまうことがあるが、でも四季の感覚というのは、単に桜が咲いているから4月だというように切り取ったものではなく、殺風景で寒々しい冬を過ごしながら、芽吹きや草花の色が変わってきた喜びを感じたり、昨日までマフラーをしていたのに今日はマフラーをしなくてよくなったり、そういう感覚が裏打ちされて初めて実感するものです。
そこまでタイにいる子供達に理解しろというよりは、タイにいると季節は何が基準になって感じられるのかという自分たちが実は持っているその感覚を元に一回掘り起こしてみることが大事だと思います。
そういうことをした後に、季節ごとに写真のある日本のカレンダーを数部集めて、4月はどういうものかって話をした時に、4月はこうなると口で説明するよりも、並べてみた時になんか4月ってこんな感じだと、それぐらいのイメージで押さえていくと面白いです。同じように、タイの人たちがよく普通につかっているカレンダーのパターンで、どういうものが写真として組み込まれているかみてみると、日本のカレンダーはどれをとっても季節感が全面に出てくるものが多いのに対し、タイのカレンダーはそうではありません。タイの人たちにとってもう少し大事に思うことや行事など、そういうことでタイの人は季節を感じるんだとか、日本には行ったことないけど、日本の人はこういうことで3月って感じなんだなって感じることが大切です。日本人って言われても、日本で生活したことの無い子供達が、日本で生まれ育って感覚を刷り込まれている子たちと、同じように理解するってことを要求するのは乱暴な話です。そういうことがありそうだなってことを理解して、むしろそのようなことを「じゃあタイは?」と、比較できることで学べたら、言語的にも認知的にも成長できると思います。


〈池上先生〉
子供達の言語生活を捉えることが大切。
体験も、これはよく言われていることで、体験すれば学びが起きるというわけではない。体験してああ面白かったなって言って終わった時に、そこにはあまり学習はうまれない。楽しかった思いは残る。
そこに学習を起こしていくことが、私たちが作って行かなければならない仕組みだと思います。
それは、子供達が普段どんな言語生活をおくっているかによって、どんな体験が必要かが違ってくるので、言語生活をまず把握すること。そこに新しい体験を置くことで。普段の何も頑張らなくてもできている言葉の表現よりも、がんばっちゃうような体験。
それが伝えたいとか、教えてあげたいとか、もしかしたら思い出したいっていうようなところに繋がっていくんじゃないかなって思うんですよね。
体験そのものは一人なんですよね。最初はそこなんです。だけど、この体験を誰かと共有したいなと思えるかどうか。その体験をしていない人に自分がした体験を語りたいと思うかどうか。
もうひとつは、共有していることを、どんなふうに私は思った、この子はどう思ったんだろうという共有を共感しながら、言語に結びつけていくということが必要なんです。
3つめの体験の出先っていうのは、もう1回自分だと思うんです。時間がたった後に、大事な体験を思い出すってことです。
自分があのときに日本人学校で劇をしたなとか、あのとき先生は褒めてくれたなとか、いつかどこかで思い出せる、そこは何語で思い出すのか、思い出したことを誰と共有したいと思うのか、それは子供の成長の次の言語生活にも関わっていくんですけど、わたしたちはそこまで一緒に見ていけるかどうかわからないけど、そういうことが起きるような体験をいまここで作っていけるかということが、すごく大事だということを2つの発表を聴いて思いました。学校というのは教科書も使わなければならない、学年の枠組みもある、でもその中での大事にしたいものをどう体験として提供していくか。キャンプは、学校ではないんです。でもそこで普段の言語生活を見た時に、この体験をさせてあげたいということで、自然の中で、自然が大事だってことで作ったもの。そこを体験というキーワードでくくってご発表いただきました。

第13回セミナー第1部「レベル差を乗り越える言語活動報告」

みつめよう子どもの姿、考えよう子どもの現実

 子どもを育てる、ことばを育てる
 ―子どもが自信を持って生きるための言語活動実践―

2017年3月6日に終了したセミナーの内容をこれから数回に渡り報告します。今回は、第1部の「レベル差を乗り越える言語活動報告」の発表概要と、質疑応答、コメンテーターからのコメントを掲載します。
国際結婚で生まれた子どもや長期間日本国外で育つ子どもたちの場合、同じ年齢であってもその日本語能力には大きな差があります。このように、日本語レベルに差のある子どもたちが一緒に学習活動する状況は子どもの日本語教育現場の大きな課題です。
第1部では、このような難しさを乗り越え、子どもたちそれぞれの言語レベルを伸ばしていく活動をしているインターナショナルスクールと親が作る日本語教室のから報告がありました。


◆発表概要

●学校
「日本語のレベル差を活かす試み―物語を読む授業」インター校ハイスクール部の実践

………………………………………………中町かほる(International School Bangkok

インターナショナルスクールにおける母語教育は、学習者の母語教育経験の差異ゆえに、母語運用能力の開きが大きいことが前提である。発表で報告するのは日本でいう中学3年と高校1年の合併クラスの授業実践である。日本語母語教育経験のある生徒もない生徒も混在しており、国籍も様々で、漢字識字力が小4から高2ぐらいの違いがあった。今回の発表はこのクラスで行った文学の授業である。取り上げた作品はヘルマンヘッセの「少年の日の思い出」と有島武朗の「一房の葡萄」。この二つの作品は題材が似ているが主題が異なる。この作品を比べることで認知力をあげる授業を目指した。まず二つの作品を解釈し比較していく過程をグループ学習、ペア学習で丁寧に積み上げていった。学習効果を上げるために扱う作品を自分で選ばせ、協働型の授業を行った。個人の読みをグループで確認し、さらにその作品を知らない人に紹介するという理解の過程を経、次に表現技法の比較から主題を読みとり比較する段階にあげていった。日本の母性社会とヨーロッパの父性社会の比較まで進んだ生徒もいたが、母語力のない生徒も「なぜ盗みを働いた者が許されるのか、許した教師は盗まれた本人に何と言ったのか知りたい。」あるいは、表現技法の比較から主人公の弱さ、劣等感を導き出し、小説の中核をなす事件を「主人公の劣等感が悪い方向に固めた結果だと感じた」など、自分の考えを表明する感想を書いた。この段階ではまだ解釈のレベル。授業の最後は、二つの作品を参考にプロローグ、エピローグの構成を考え、将来の自分が少年の日の自分の物語を書くという課題に取り組ませた。理解から創造まで認知プロセスをあげて行った実践報告である。

参考資料
・ブルーム 教育目標の分類 改訂版
(Anderson and Krathwohl-Bloon’s Taxonomy Revised 2000)
 認知レベル分類:記憶⇒理解⇒応用⇒分析⇒評価⇒創造

・ラーニングピラミッド(National Training Laboratories)

●親主催の教室
「共に成長し合える活動を目指して―テーマ型活動報告」親が創る日本語教室の実践

   ……………………………ケイホワサイ美穂子/衣畑美里/番場千恵子/小池快枝
                   (バイリンガルの子どものための日本語教室)

かつて、私たちは子どもの日本語の力を読み書きのレベルで判断していました。しかし、子どもたちの日本語環境はそれぞれ異なり、レベルは様々です。そもそもタイで育つ子ども達にとってどんな日本語が必要なのでしょうか。そこで2008年、私たちは子どもの何を育むのか目標そのものを問い直しました。そして「主体的にアイデンティティを構築し、社会との関係を拓ける力を養う」ことを目標に「違い」や「差」そのものを資源として活動をすることにしました。そこで生まれたのがテーマ型活動です。今回の発表では全クラスの活動の様子紹介の後、中学年部の「マイアルバム」を中心にテーマ型活動の実際と課題、子どもたちの成長の様子を実際のやり取りデータで報告しました。「マイアルバム」は9・10歳の子ども達のこれまでの歴史と今を目に見える形にアルバム化したものです。日本語レベルに差があってもどんな子どもも同じテーマでそれぞれに取り組めます。作成過程で友達の事を知り、影響を受け合います。そして「私」がいっぱい詰まったアルバムを周囲の人に見せ紹介しコメントをもらいます。このアルバムを持ち歩いて沢山の人からたくさんの言語でコメントがもらえたら子どもたちにとって大きな自信になるでしょう。この活動を通じ子どもの成長のスピードや形は一人ひとり違っていても必ず成長することを親自身が学びました。テーマ型活動は親も子も一緒に成長できる活動実践だと思います。

報告例

「オリジナルのハンコを作りマイスタンプを作成しました。アルバムにCDケースを貼り付け保存。いつでもあげられる自慢の作品です。」







「生まれたときの気持ちを両親に手紙で書いてもらいサプライズで子どもたちに渡しました。手紙の言語は日本語に限らず、親の使用言語で書いてもらっています。」







「子どもたちにとって書くという作業はとても面倒なことです。「自分のアルバム」ですから、貼ってある写真や描いた絵が何を意味しているか本人はわかっているからなおさらです。そんな時担当者は、子どもに代わって文字化を手伝います。私たちが重視しているのは、自分のことばが文字になって残ること文字にするって悪くないなと子どもに気づいてもらうことです。」

◆質疑応答

〈中町先生に〉
 質問:子どもたち自身や書く力に変化はありますか?
 回答:書く力に関しては、PCを使うので、難しいことばを使ってきます。
自分が書いたものを読めない子がいたり、難しいところからコピーペーストしてきて、非常に難しい文体を書いてきます。
ITによって、書く力というか、語彙と文が変わってきたというのはあります。


 質問:日本語力の差が大きいかなり大きい場合、生徒たちへの指導をどうしていますか?
 回答:2つあります。1つは、日本語の言語力が低くても英語力が高い子には、語彙力を高める指導をしています。
同じような問題を持っている子を呼んでするか、グループ学習の時にその子たちを指導するようにしています。
もう一つは、英語も日本語もタイ語もベースにできる言語がないという生徒には、週一回、放課後に行っている「継承語の活動」に参加させることにしています。
これは、上級生が下級生に教えるもので、生徒たちで教え合うものです。
その中に私も入って生徒たちと一緒にしています。
1つのやり方で全ての学生に合うということができれば良いのですが、なかなかできませんので、放課後などの時間を使って1対1又は1対2で行っています。
日本語の授業に関する補習を行い、学生によっては強制的に参加させています。
また、ずっと一人の子に注目するのではなくて、今月はこの子に注目しよう!今週はこの子に注目しよう!今学期はこの子とこの子とこの子を重点的に!と決めて、授業中に観察しています。


 質問:とてもレベルの高い授業内容に思ったのですが、ついていけない学生はいないのでしょうか?そのような学生は何割くらいいますか?
 回答:ついていけない学生もいます。外国語としての日本語のクラスに入れて、徐々に自信をつけてもらって、後で引き上げてきます。その学生の割合は、年によって違うのでどのぐらいとは言えません。
ほとんどそういう子がいない時もあります。皆伸びるスピードが違いますし、割合がどうとは言えません。


バイリンガルの子どものための日本語教室に〉
 質問:この団体は補習校登録をしないとおっしゃってました。補習校登録というのはどんなものなのでしょうか?
 回答:補習校になりますと文科省から支援を受けられる、日本人学校からも巡回指導が受けられるということがありますが、ただ日本向けになってしまうんではないかという懸念がありました。
私たちはタイで育つ子どもたちが対象なのだから、ここでどう子育てをするかということで補習校登録をしませんでした。
当時、安定的な運営のため、補習校の方がいいんじゃないかという話もありました。
お母さんたちも、教えて下さる先生がいたらいいなあ、ということもありましたが、補習校になるということではなく、独自の路線を歩みましょう、ということをお母さんたち自身が決められたということです。


 質問:お母さんたちが運営されているバイリンガル教室はすごく専門的にちゃんと考えられている印象を受けたのですが、テーマ、内容、カリキュラムなどを考えるのに、どれくらい準備をされているのですか?
 回答:集まるのは月に2回ですが、タイの学校の長期休みである4月と10月に、1日中かけての大きなミーティングを行い、ずっと話し合いをした結果、テーマが出てきます。
私たちは普通の主婦や母親ですので、深澤先生にアドバイスを頂きながらやっています。
1日で決まらない場合は、また他の日にも集まります。


◆コメンテーターより

〈石井先生〉
2つキーワードがあるかと思いながら聞いた。
1つは違いに着目するということ。もう1つは発信。
子どもの違いは、日本語知識レベルの違いだけではない。母語の状況、認知力、経験、嗜好性などいろいろなことが違う。それが2つの活動それぞれに生かされている。
そして、違うことがあるということが、実は発信を生む一番大きい理由になる。
同じ物を見て、同じ物を教わった時、皆が同じように感じ、同じように理解するなら、そこでおしまい。
違う所を持っているからこそ、自分が、理解したこと感じたことを他の人に向けて再度発信しなおす意味が出てくる。
発表の資料にもあるように(ラーニングピラミッド)
他の人に教えるということが何よりも言語能力が定着するということだが、
ここで、他の人に向けて自分が理解したことをもとに発信をする、自分自身の表現が相手に届けられ、そのことで評価をもらう、ということが起こると、定着だけではなく、次の活動への動機付けを生む。
評価は必ずしも成績という尺度でなく、「それはいいね」「そうじゃないと思う」などの反応が返って来るということ。
自分がわかったこと感じたことを表現する、そのことによって自分も新しい相手からのメッセージを受け取れる。
その喜びを知ると、いろいろなことを知ってそのことについて相手に伝えたいと思う。
伝えるということは言葉を使うということに繋がる。
違うからこそそこで言葉を使う必然性が出てくる
受け取るだけの言葉ではない、教え込まれるだけの言葉ではない、自分を表現するための言葉に繋がっていく。

実践1(学校)
共通の作品を読みながらこんなに違う受けとめがあるということに生徒自身が一番驚いていると思う。議論が起きるかもしれないし、次からも感想を書く動機付けが生まれる。
教師からの評価だけでなく、子ども同士が、比べ合い、質問し合い、その中から評価をもらうというやりとりがまた違う意味での動機付けを生むと思う。

実践2(親主催の教室)
こちらも子ども同士のやりとりに発展できる。
自分のことを書いたものもそれぞれに発表しあうということもできたらいい。
1キロ歩くというのもいいアイデア
切り取ってしまった単語、1キロという言葉を、1キロは千メートル、ということを学んでも、自分に何の意味ももたらさない。歩くことで実感できる。(注)
例えば万歩計をつけたらおもしろいだろう。
小さい子も大きい子もいて、みんなで千メートル歩いたのに万歩計を見たら数字が違う。
お互いに見せ合い、「小さい子はいっぱい歩いているよ」という話から、「どうしてだろう」「こうじゃないか」と自分の考えを表すための言葉の形が欲しくなってくる。比べるということを表す言葉が欲しくなる。
わかったという実感だけで終わらず、それを誰かと話し合ったり、相談したり、伝えたり、しようと思った時、それが、比較の表現であるとか、自分の気持ちを伝える言い方、事実を言うときの言い方、順番づけて話すことなど、家庭内の日常会話では出てきにくい言語形式を学べる大きなチャンス。
それに向けた非常な豊かな活動の流れがすでにできている。
体験したことをどの言葉に繋げるかというもう一歩を考えるとさらに見事なものになるのではないか。

(注)実践2では中学年部のテーマとして「マイアルバム」のほかに「数で知る私の世界」「マイカレンダー」が紹介された。このエピソードは「数で知る私の世界」の活動の中の一つ。

〈池上先生〉
多様性を資源ととらえる、違うことがあるからこそ表現に繋がる、という石井先生の話。
では私たちは何をすればいいのか。
子どもたちが、違いというものをいいことなんだというふうにきちんと理解して実感をともなって認めなければ、表現にはなかなか繋がらないと思う。
わからないことをわからないと言っていい、年齢が上の子が下の子にわからないと言ってもいい。
それを聞いてもらえる、そしてそれを教わることは悪いことではないと。
けれど別の軸に移った時に、このことに関してはこの人には自分が教えてあげられると。
2つの実践でも、子どもたちが先生、親御さんに教えるということはたくさんあったと思う。
それが起きるからこそ、自分は他の人に教えていい、先生以外にも教わっていい、先生にも教えていいと思える。
そうした固定的な役割がない中で、役割を転換しながら、自分の思いや自分の考えを表したい、表すことができた、という場面を作れていたのではないかと思う。
それを作っていくことが、いろんな子がいていいんだという環境を積極的に評価して、積極的に育んでいくことに繋がる。やるべきことに見えてくる。
評価にも様々な評価がある。
例えば子どもたちが作った作品を評価する時に、たくさんの軸の評価を持って評価してあげる。
子どもたちもそうして自分の中に評価の目を持つことができる。
他の人に対して、多様な評価の軸を持って接したり評価したりすることができる。
多様な存在を自分はどうとらえ、自分はどういう多様な存在であるか自覚して、次の活動、次の自己表現に繋がっていく。
私たちがしなければいけないことは、そういう環境を整えること。
そういう関係性の中で子どもたちと接し合うこと。
評価の軸をたくさん持ち、相手にもたくさん持っていいんだと言ってあげて、その目を育んであげること。
そうすることで、多様性を積極的にとらえ、多様性を生かした実践ができていく。

第13回セミナー終了

みつめよう子どもの姿、考えよう子どもの現実

 子どもを育てる、ことばを育てる
 ―子どもが自信を持って生きるための言語活動実践―

日時 :2017年3月5日(日) 12:30〜16:30
参加者:73名

東京女子大学から石井恵理子先生、早稲田大学から池上摩希子先生をお迎えし、大勢の参加者とともに年次セミナーを無事に終えることができました。

〈プログラム〉

1部 レベル差を乗り越える言語活動報告
 ● 学校
 「日本語のレベル差を生かす試みー物語を読む授業」インター校ハイスクール部の実践
   ………………………………………………中町かほる(International School Bangkok
 ● 親主催の教室
 「共に成長し合える活動を目指して−テーマ型活動報告」親が創る日本語教室の実践
   …………………………………ケイホワサイ美穂子 / 衣畑美里 / 番場千恵子 / 小池快枝
                    (バイリンガルのこどものための日本語教室)

2部 様々な活動紹介
 ● ことばが生まれる体験
   ……………………………谷口輝明(The American School of Bangkok 日本人幼稚園)
 ● 言語よりことばー繋がりと関係性を優先して
   ………………………………………文殊寺恵美 / 角田麻美 / 藤井美由紀(日本人学校

1部2部まとめ
 ● ことばを育てる言語活動実践まとめ
   …………………………………石井恵理子(東京女子大学) / 池上摩希子(早稲田大学

3部 親としての経験…………………………………………… …石井恵理子(東京女子大学

〈参加者感想〉

  • ごく普通の日常生活でもいつもと違うなにかを1つ見付けて、それを体験させる。もっと親子との関わりを大切にする。誰かに何かを伝えたいと思う気持ちを育てる。強制は絶対することでない。改めて我が身をふりかえった。もっと子と話し、接しなければならないと反省しました。(保護者・教育関係者)
  • とても勉強になりました。特に石井先生のお話には気付かされることが多く、私の教育に対するアプローチを変えなければ!と思いました。(教育関係者)
  • 保護者として、日々自分の考える範囲しかやれていないことに、もっと体系的で実践的なお話がきけて、ありがたかったです。(保護者)
  • 各発表者の方々の発表はすばらしかったのですが、コメンテーターの方のコメントが素晴らしかった。ピアラーニングの大切さ、「ちがい」は悪いことはないということを子供(学習者)に伝える。言語学習は他人からの強制ではないということなど、教師として、親として、改めて感じることができました。(保護者・教育関係者)
  • 幼児期 学童期を主にタイで過ごす中で、日本語を忘れてほしくない!という思いから漢字を教え過ぎた結果 子供から日本語拒否の信号が発せられ 現在は子供たちには一切勉強の漢字学習はやめようと思い始めたところでした。ではこの先 子供たちの日本語はどのように保持していけるのだろう。そんな中で聞いたセミナーでした。石井先生のお話に 子供が自ら伝えたいことや 思い出を残したいと思える事が言語化に繋がるとありました。経験の豊かさは言葉の豊かさにも繋がるのだと気づきました。これから思春期に差し掛かる子供たちへ 今後何かのきっかけで日本に興味が出ることを待ちつつ・・・それまでは 読み聞かせや 楽しむ日本(日本帰省)を中心に日本を感じていけたらと思います。(保護者・教育関係者)
  • 表現することが次への動機付けになる。表現したくなる経験、その表現を受けとめる。(保護者)
  • 3歳の娘がアイルランドと日本のダブルです。日本語と英語のバイリテラルバイリンガルを目指して意気込んでおりましたが、色々な形があって良いのだ!とハッとさせられました。詰め込み式ではなくて、「伝えたいという想い」「言葉にして発信する面白さ」を引き出すような工夫をしながら育てていきたいと思いました。「全部放棄してしまうのはもったいない」「一番大事なのはメッセージ」この2つの言葉がとても印象に残りました。(保護者・教育関係者)
  • 様々な立場、現場、多様な子供達を感じました。ステップを追いながらのお話も理解しやすかったです。違い、段差という言葉からも新しい発想を発見しました。言葉を持つ、自分を持つということもあらためて感じました。(教育関係者)
  • 様々な立場の先生からお話を聴くことができ、大変勉強になりました。「伝える」ということの核とは何か、とても考えさせられました。(教育関係者)
  • 色々な発表があり、母親、教師、両方の立場から役に立つ内容でした。16歳の娘にまだ出来ることがあることがわかりました。授業の参考になることがたくさんありました。(保護者・教育関係者)
  • 講義を受ける、読書をすることが学習向上上、絶対だと思っていましたが、体験を通して話を広げて行くことがなにより学習したことを定着させる。受け身だけではなかなか定着しないということが、なるほどと思うことができました。(保護者)
  • 言葉の意味だけをトップダウンで教えていたことを反省しました。このような実践をまたおききすることができればと思います。(教育関係者)
  • 日本語を教えるものとして、何をどのようなテクニックで教えるかについて、つい考えてしまうことが多いのですが、今回のセミナーに参加して、目が覚めた感覚がありました。(教育関係者)
  • 日常の中での豊かな体験って何だろう?ダブルの親として、日々考えていましたが、具体例を交えてお話を伺えて、日常の中での段差をつける、その子にとって意味のある体験が言葉と結びつくということが、腑に落ちました。ダブルの子であっても、今、自分も子供も家で幸せに過ごしているだけで、第一歩はもういいのではないか、パーフェクトなバイリンガルをもとめなくていい、という言葉に共感しました。(保護者・教育関係者)
  • 池上先生のおっしゃっていた「日本語活動に参加した後に、生徒1人1人に何を学んだか、どう感じたか等の感想を親や指導者に何らかの形で伝えること、又は参加した学生同士で感想をシェアすることのステップをふませることに、そこに学習が加わる」「そこに教師の役割がある」に感動、納得いたしました。(保護者)
  • 四季の感覚を教えるのがなかなか難しく、写真や動画を見せるくらいしかできなかったんですが、タイの四季を持ち出して「感覚」の話をするというのが、とても勉強になりました。気温、植物だけでなく、カレンダーも用いることができるとわかり、他にも使えるものがありそうで、面白いなとおもいました。(教育関係者)
  • 色んな立場の実践について聞くことができ、大変ためになりました。各言語の習得はその子供にとって、その言語を橋として誰かとつながりたい、伝えたいという想いがあるか、生まれるか次第だなと改めて思いました。(保護者)

今回はインターナショナルスクール、親主催の日本語教室、個人の活動、日本人学校の活動とさまざまな場での具体例を交えての実践発表と、コメンテーターの先生からそれに対するコメントをいただけたことで、保護者や教育関係者などそれぞれの立場の自分の子育てや授業の振り返りになったとのご感想を多くいただきました。今後も様々な場での実践を報告し、それぞれの立場で理解を深めていく、そのような場を提供できればと思います。
「コメンテーターのコメント」「親としての語り」はブログで引き続き掲載していきます。お楽しみに。

(JMHERAT運営委員)


会場の様子:お互いに自己紹介をする参加者達