タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会

Japanese Mother Tongue and Heritage Language Education and Research Association of Thailand (JMHERAT)

自分が切り拓いた新しい世界

複言語・複文化を生きる親と子の思い −経験を語る、経験を聞く−

  子の思い(マリさん)第2回報告

日本で育った子どもの話‐マリさん


第2回報告
【自分が切り拓いた新しい世界】

第1回報告では【マリさんの辛かった子ども時代】と題し、マリさんの小学校、中学校の経験を報告しました。いじめられているとしか思えなかった友人関係。その辛い環境をマリさんは自分の力で変えようと考えました。

自分が切り拓いた新しい世界

新たな人間関係へ

高校はもうその環境から離れたかった。うちは、ほんと田舎だったので、結構高校が極端だったんですよ。すごい偏差値が悪いところと極端に良いとこと。私が今まで関わってきた、私を無視したりとかからかってきた人たちはその偏差値の下の方に行ったんですね。なんでここで離れるために私は上の方に行こうと思って、中学校3年の時にいっぱい勉強して、高校はそこに入れたんです。そこでようやく離れました、その環境から。

自分が「ハーフ」※だと知られるたびに繰り返されたいじめ。そこから逃れたかった。この時、まだ「ハーフ」である自分を肯定的に捉えられていたわけではない。

※ 国際結婚児はハーフと呼ばれていますが、「半分」という意味の呼び方は差別的であるため、最近はダブルと呼ぶ人も増えてきました。当研究会でもダブルと呼びますが、マリさんの語りの中のハーフはそのまま直さず使用します。マリさんのことばの引用としてあえて使う場合は「 」をつけ、「ハーフ」と表記します。

初めての自分をオープンにできた安心感

(高校では)みんな中学校が違うので、私のその中学校時代とか小学校時代のことは私が言わない限り分からないんですよね。(言わないの?)言わないです。何か言ったら折角今明るい自分になれているのが台無しになっちゃうのかもっていうのがあったんで、言いませんでした。(言えたのはいつなんですか?)
仲の良い友達ができて。学校がすごいいい環境で、性格の良い子たちが集まっていたので、大丈夫かなって、何か安心できたんですよね。それでちょっとポロッと言っちゃって、正直反応をみようかなというのもあったんですよ。まずは一人目反応を見てから考えようというのもあって。でその反応は思いのほか肯定的だったんで、そこでオープンにできるようになりました。
(いつごろのこと?)高校の1年の時ですね。1年の1学期最後か2学期のはじめくらいかな。ちょっと経ってからですね。高校入ってから。

生まれた肯定感

その子は、私がタイ人のハーフだって言っても、「あーっ凄い格好いい」って言ってくれて、そこで何かハーフが、プラスっていうふうに受け止めることができ始めたんです。今まで、みんなと違うというのがちょっとネックになっていたのが、何かその時にはみんなと違うから個性があるのかなとか、良いのかなという風に考えが変わってきて。それで結構高校から明るくなりました。

「最高」と感じた高校時代

今まで自分に自信が持てなかったりだとか、からかわれることが多かったりだとか、同じ女の子同士でも無視されることがあったのが、高校になって全くそれが綺麗サッパリなくなった、今まで自分の生活にマイナスに作用していたものがなくなって、ようやく色々なものを楽しめるようになってきたんですよね。だから高校はもう最高でした。

高校で初めて「ハーフ」である自分を肯定的に捉えられるようになった。マリさんはその後大学に進学し就職活動では「ハーフ」である自分を積極的にアピールする。そして、タイにもタイ語にも関心を持つようになった。


「ハーフ」であることの意識の変化

タイとの繋がりを自分の強みに

片親はタイ人だけど、自分は日本人として日本の社会で生きて行く。別にタイの国籍をとりたいという意識もなかった。タイを意識したのは就職活動の時。海外勤務が希望だったので、自分が何でアピールできるかってなった時に、逆に今度はハーフであることをアピールしようって思いました。もともと、海外に興味はあったけど英語圏のほうでことばも英語に興味があった。会社は証券会社にはいり、そのころからだんだんタイの人気も出てきて、経済もアセアンの方に移ってくるなと感じていた。だったらできる人がたくさんいる英語より自分と繋がりのあるタイ語やった方がいいんじゃないかって思って、それでお金貯めてタイに来ることにしました。日本の社会にはこれ以上馴染めない、というのもありました。

自分の世界を広げるためにも

高校の時のオーストラリアのホームスティでいろんな人(海外から移住してきたり、ハーフやクウォーター、もっと複数の国の血が入った人など)がいる国というものを知った。
ちょうどそのころ、Tさん(父親のタイの職場の日本人。マリさんが生まれる前からずっと付き合いが続いている)がその息子さん、ハーフのS君を連れてきて遊ぶようになってから、だんだん私より年下の子でハーフの子たちが増えてきているっていうのを感じてきたら、どんどんどんどんハーフの自分がそんなに変わった存在じゃないんじゃないかって思うようになって来ました。で、おまけにS君はタイに住んでいるので彼がタイに住んでいて、いろんなことを日本にいる私よりも、勉強したり経験しているような気がしたんですよね。英語なり何なりと。で、S君の話を聞いていると、友達に何人がいるとか、何人とハーフの子がいるとか聞いてて、やっぱ世界って広いんだ、もっと広い世界を見てみてもいいんじゃないかなって考えるようになりました。ちょっと日本だけじゃなくて海外に目を向けることをポジティブに捉えるようになって。で、自分も元々ハーフであるわけだし、たぶん日本で育った日本人の人よりも国際的な部分があるんじゃないかなって思ったんで、もうちょっと広げてみたいと思うようになったと思います。

高校時代に芽生えた、いろんな人間が生きていけそうな海外への夢。アセアンが魅力的に見えるようになった時期とも重なり、自分の持っているタイとの関わりが強みになるのではないかと考えた。いろんな人がいることも知り、自分自身の捉え方は変わった。日本に居場所がない思いはある。だか、自分の世界は自分で切り開けると感じるようになったことが分かる。
仕事を辞め、タイ語を勉強しにタイに来たマリさん、今は自分をどう思っているのだろう。


今の自分

知らないことがあってもかまわない−自信がついた私

小さい頃は自分のことは日本人、日本側の人間だと思っていた。ハーフと言う意識はいじめがあって初めてそうなのかと思った。日本人としてもみんなが知っていて、自分だけ知らないこともあるから中途半端な日本人。タイ人の血が半分入ってるという意識は弱いからハーフとしても中途半端。でも今はあんまり気にしなくなりました。こっち(タイ)に来ちゃってから日本より国際色豊かな人とたくさん出会えたのもあって、私ハーフだけど、
タイに来ても知らないことたくさんあるけど、今まで日本にしかいなかったんだしいいか、しょうがない、こういうハーフがいたっておかしくないでしょって開き直るようになりました。タイ語の勉強が普通の人より何倍も速くて先生に褒められてようやくハーフで良かったって思えるようになったし、自信もついた。

マリさんは、なぜ海外に出たいのかという質問に、「自分の世界を広げたい」と答えた。いじめやネガティブな考えから逃れるためではなく「自分を変えたい」「自分でチャレンジ」したいという肯定的な捉え方をしている。それには、高校で自分が変わったこと、いろいろな人に出会い、タイ語の可能性を見つけられたことが大きく影響しているのではないか。


いじめの話から始まったインタビューは、環境を変えながら「ハーフ」である自分を肯定的に捉える体験を経て、自信をつけたマリさんのコメントで終わりました。次回は、ことばに焦点をあて、マリさんがどのようにことばを捉え、成長していったのかをお伝えします。