タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会

Japanese Mother Tongue and Heritage Language Education and Research Association of Thailand (JMHERAT)

複言語・複文化を生きる子どもの語り「僕の中にある、日本、タイ、アメリカ」「『一人で生きていけ』それが先生のメッセージ?」」

親と子どもの話を聞こう

―複言語・複文化を生きる7人の語りー

 

2019年8月25日(日)に終了したワークショップの2回目の報告です。今回は、第二部「体験者の話を聞く」セクションのBさんとDさんの語りの様子です。

当日語りセクションでは、どのような語りが生まれたのでしょうか?また、聞き手とはどのようなやりとりが起こったのでしょうか?

 

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「僕の中にある、日本、タイ、アメリカ」~Bさんの語り~

<Bさんの背景:母タイ 父日本>

<Bさんの話のポイント>f:id:jmherat:20190919101928j:plain

 ・移動しても学校が辛くなかったわけ

 ・親や友達と離れてでも来たかったタイ

 ・アメリカが辛かったのは・・・

 ・日系の会社での自分のあり方

 

<Bさんのストーリーと質疑応答など>

 日本で生まれ、5才でタイに移動。小学生の間にタイ→日本→タイと移動し、タイで中学校卒業後にアメリカで高校・大学を卒業、現在はタイの日系ITコンサルタント企業に勤務している。アメリカでの高校時代を大変だった記憶として振り返る一方で、タイ・日本の移動を繰り返した小学校時代は「苦労した覚えはない」「嫌なことはなかった」という。日本での小学校時代には一から日本語を学習し、言語的なハンディキャップがありつつも友達と先生に恵まれた。しかし、その楽しさを手放し、親と離れてでも、「大家族」にあこがれて自らの意思でタイに戻り、また一からタイ語の学習に励む。アメリカへの移動後は、言語のみならず外見や趣味まで「周りの人と違う」感覚に悩んだ。その後、周 囲になじめたと感じた後は、そのままアメリカで大学を卒業、一度はアメリカで就職するが、ビザの問題によりタイに帰国。

f:id:jmherat:20190919101942j:plain 言語・文化圏を移動する子どもは何に支えられ、何に苦労するのだろうか。Bさんは、日本への移動、タイへの移動、アメリカへの移動のいずれも、言語的に大きなハンディキャップがある状態で過ごしたが、日本・タイでの小学校生活では苦労を感じなかった。その一方で、アメリカに移動した当初は苦労の多い毎日だったという。その理由として振り返るのは、日本・タイでは友達に自然に受け入れられたのに対し、アメリカではその社会に身を置きながらも「周囲と違う自分」をたびたび意識させられる出来事があった、ということだった。

 タイ国内の日系企業で働く今、職場で発生する業務上の問題には、日本とタイの仕事についての考え方の違いが深くかかわっていると言う。日本・タイ・アメリカへの移動経験を持ち、複文化的な考え方のできる人間としてITコンサルタントに従事している。

 

Bさんのストーリーを聞いた後で行った2セクションでの質疑応答の中で、印象的だった質問をご紹介します。

 

印象的な質問①

「(移動のたびに、その先で)何人として見られるのか?」という質問。Bさんは「タイではタイ人として見られ、日本では日本人として見られた。アメリカでは、アメリカ育ちではないアジア人という目で見られた」と答えました。その例として、Bさんは、アメリカ時代の服装の話を挙げました。「同じアジア人でも、アメリカで育った人というのは、服装だけでなんとなくそれがわかる。服装だけでアメリカ人ではないと悟られ、店の人の態度が悪くなるということもよくあった」とのこと。社会の正統的なメンバーではないと見なされることによって、「自分とは何者なのか」という問いを突き付けられる。Bさんが自身をとりまく関係性の中で味わったものが、決してことばの巧拙といったレベルにとどまる問題ではないということを、聞いていた誰もがその時改めて理解したと思います。

 

印象的な質問②

日系企業では、日本語・英語・タイ語の3言語を使える人という期待を受けているのか?」という質問。これは、ファシリテーターの私も気になるものでした。意外にも、Bさんの答えは「実のところ、そういうわけでもない」というものでした。「そもそも、日本語と英語とタイ語が話せる社員は、職場ではそこまで珍しいわけではないんですよ」と、こともなげに言っていました。

 移動の経験を持つ人にとって、さまざまなことを複数の言語で遂行できるという点は確かに非常に大きな強みだと思います。ただ、Bさん自身は、少なくとも自分の仕事について、複数言語の話者であることがそこまで重要なことだとは思っていない様子でした。私はつい、複数の言語で仕事ができることを、さながら何かの特殊能力であるかのように思ってしまいます。しかし、むしろ今のBさんは、移動も含め、これまでの人生で培ってきた思考能力や感性そのものが仕事に生きているのであり、それを自分で肯定的に捉えることができる状態にあるのではないか、とこの一連のやりとりから想像しました。

 

 2回とも誰もがメモをとりながら熱心に聞き入っており、Bさんの経験談に参加者からの感嘆の声が何度も漏れるような30分でした。ファシリテーターの私自身も、Bさんの穏やかな雰囲気での語りの中に、(「3つの言語を使いこなせる」といったこと以上に)複言語・複文化的な能力がはっきりと感じられたひとときでした。(ファシリテーター・千石昂)

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「『一人で生きていけ』それが先生のメッセージ?」~Dさんの語り~

<Dさんの背景:母タイ 父日本>

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<Dさんの話のポイント>

・幼稚園で初めて出会った日本語の世界

・小3で感じた勉強の困難さ

・「一人でも生きられる」に対して今思うこと

 

タイで生まれ、1歳の時に父の仕事の都合でフィリピンへ。2歳でタイへ戻り、地方の幼稚園を経て、バンコクの日系幼稚園へ転園。そこで初めて日本語がたくさん話されている世界と出会う。言葉に困難さを感じたが、ダブルの友達ができて乗り越えた。小中学校では友達からダブルというだけで悪口を言われたり避けられたりしたため、あまりいい思い出はない。小3の頃の勉強で、理科は分かるが、国語や算数では特に文章問題になると理解が困難だった。小6の始業式後に行われた教室活動で友達とペアが作れなかった際、担任に「今一人で立っている人は、一人でも強く生きられる」と言われ戸惑う。中3では友達に恵まれ楽しい学校生活を送る。卒業後、通信教育の高校へ。

 

f:id:jmherat:20190919101935j:plain2回のグループセッションには、ダブルのお子さんを持つ保護者や、ダブル当事者である中高生、そして教師がともに集い、Dさんの話に耳を傾けました。そして、学習の困難点、学校生活における環境、友人や先生の意味について再考しました。以下、質疑応答の一部を紹介します。

 

質問:「一人でも生きていける」という言葉は、結果的に自分にとってよかったんでしょうか。それとも、悪かったんでしょうか。また、今考えたら、やっぱり先生の言う通りだったなとか、消化できているんでしょうか。

Dさん:先生に言われたときは「え?」と思ったんですが、今思うと、結果的にプラスになっています。親戚などの中に人に依存しすぎて自分がやるべきことをやらない人がいるのですが、そのような人にならなくてよかった、一人で生きられるような人でよかったと思います。でも、今、通信教育の課題をしていて、たまにわからないときがあります。そのときはやっぱり誰かがいたら楽だなと思うこともあります。

 

質問:学校の先生に、してもらえたらよかったと思うことは?

Dさん:中2のときにクラスの人がタイの悪口を言ってきたので、怒って先生に言うと、「今まで我慢してきたんでしょ。今回も我慢しなさい」って言われたんです。せめて気持ちに共感して「つらかったね」「我慢したんだね」とか一言でもいいので言ってもらいたかったです。

 

質問:子どもを言語面の問題があってサポートできないとき、どうしてほしいですか。

Dさん:(今年3月の)ワークショップでリテラシーがテーマだった時にもその話題が出ていましたね。やっぱり親はそういう状況にあうと、すごく気まずいと思います。私が親だったらどうしようかと考えてみると、とりあえず「ごめんね」って言って、寝ようかと(笑い)。勉強に関してはしょうがないと思います。でも、子どもが友達関係で嫌な目にあったときは、子どもがそう望んでいない限り「言い返しなさい」とか、「学校に言ってあげるから」と言うのをやめたほうがいいと思います。言い返せないからお父さんやお母さんに相談しているんです。できればそういうことを自分の子どもにやらないようにお願いします。

 

質問:自分が一番居心地がいい場所や人は?

Dさん:人であれば、自分のお父さんと、もう一つはハーフの友人です。嫌なことがあったときにハーフ同士では分かり合えることがあるので、やっぱりハーフと一緒にいるときが楽です。または、ハーフじゃなくても、例えば、いろんな国に行って仕事をして、壁にぶつかってきた人もいいです。

 

質問:高校卒業後の将来について、どう考えていますか。

Dさん:これからどうするのかもまだ決めていませんし、何をやりたいのかも分かっていません。今できることをして、その道にとりあえず行ってみようと考えています。

 
 過去をふりかえりながら話す中で、時々昔の気持ちを思い出しているのか、言葉に詰まるDさん。それを温かいまなざしで見守り、少しでも子どもの気持ちを理解しようとしている参加者の様子が印象的でした。セッション終了後、ある聞き手は「Dさんは今いろいろなことを感じている途中なんだと思いました」と感想を寄せてくれました。Dさん自身は「当時つらいと思ったことが、今思うとそうでもないなと思ってきています。なぜそうでもないように感じてきたのか、自分で自分のことが気になりました。」と気づきを共有してくれました。

 今回のセッションを作り上げるために、私はこれまで何度かDさんから話を聞いてきました。「一人でも生きていける」というストーリーを初めて聞いたとき、私はDさんがその体験をまだ消化しきれているようには感じませんでした。しかし、今回のワークショップで2回目の語りを終えたあと、その経験をプラスに捉えはじめていると「語りの変化」が起こりました。今、Dさんはこのワークショップでの活動報告を高校に提出する課題としてまとめているそうです。繰り返し語り、自己をふりかえる中で、またさらに新しい気づきや語りの変化が起きるのかもしれません。今回の語り手の中で最年少の16歳。これからの成長を見守り、私も共に学びを続けていきたいと思っています。(ファシリテーター・村木佳子)



複言語・複文化を生きる7人の語り ー語り手と聞き手でつくる語りの場ー

親と子どもの話を聞こう

―複言語・複文化を生きる7人の語りー

 

2019年8月25日(日)に舘岡洋子氏をお招きし複言語・複文化ワークショップの第6弾が終了しました。複数の言語と文化で育った子ども、親、夫婦、親子、教師など51名が参加しました。

今回は複言語・複文化を生きる親と子どもの体験を直接聞くという活動を行いました。まず、言語マップでこれまでの人生の言語体験を整理しました。それから、複言語・複文化を生きてきた子どもと親のこれまでの体験ストーリーを聞き、最後に複数で生きる人間が持っている能力、そして複数性をリソースとして目指す能力について考えました。詳細はこれから4回にわたり報告します。

 

 ■プログラム

〈Ⅰ部〉

 12:00~ あいさつ 「複文化」とは (舘岡洋子先生)

 12:10~ 自分たちの複言語・複文化を描く-言語マップと言語ポートレート活動

〈Ⅱ部〉

 13:30~ 体験者の話を聞く

      1回目 13:30~14:00(10分休憩)

      2回目 14:10~14:40(10分休憩)

      3回目 14:50~15:20(10分休憩)   

 15:30~ 感想の共有

〈Ⅲ部〉

 16:00~ きょうのまとめ

     「複言語・複文化を生きるということ」 語る、聞く意義 (舘岡洋子先生)

 16:20~ 研究会から

 16:30        終了

 

■会場の様子

 

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■感想

  • ワークショップはとても色んな方から話を聞くことが出来て、とても良かったですし、自分の経験を語ることによって、他の方たちの参考になることも、とても嬉しいです。(子ども)
  • 非常に学びの多いワークショップでした。私の学生にも父と母で国籍が違ったりする学生も多く、そのような学生にどのように関わったらいいのか考えるきっかけになりました。(教師)
  • 複言語・複文化で生きてきた「親」と「子」のそれぞれの立場の話を聞ける貴重な機会に参加できて、本当に学びが多い一日だった。苦労を乗り越え、前向きに生きる語り手の皆さんのお話を聞いて、ポジティブな影響を受けました。(母親)
  • 子どもが3歳なので、今後の成長を深く考えるきっかけとなりました。また、ほかの参加者と話をすることで、不安が少なくなりました。(父親)
  • さいしょがすごいきんちょうして、しつもんとか(日本ごで)こたえることもやるのがふあんでこわかったです。でも、はなしとか聞いてしゃべっていたら、みなさんがすごくちゃんときいてくれて、うれしかったです。(子ども)
  • さまざまなバックグラウンドの方のお話を通して、たくさんの気づき、学びがありました。もっといろんな方の話を聞いてみたいです。(教師)
  • 普段、家庭と仕事のみの生活で自分の視野が狭くなってましたが、本日ワークショップの機会を持ったことで、新しい刺激となりました。次回は妻と一緒に来たいです。(父親)
  • 自分にとって普通で当たり前のことでも人にとっては違っていて興味を持って聞いてもらうということは、新鮮だった。(語り手)
  • I am happy and grateful that many people today can related with my life. I truly hope that parent with children can be able to learn from me and some mistake/hardship that I had and try to adapt that to their children.(語り手)
  • 色んなことを振り返っていくなかで自分が理解できなかったことを語り手に聞いて、親の視点ってこういう感じなのかと気づきました。親の視点も知れて今日は良い経験をしたなと思いました。(語り手)

 

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リテラシーとは? −行動や活動に繋がる読む力書く力−

第15回セミナー「複数の言語・文化で育つ子どものリテラシーを考える」報告(5)

子どもを育てる、ことばを育てる

―複数の言語・文化で育つ子どものリテラシーを考える―

  

2019年3月17日(日)に終了した第15回セミナーの最後の報告をします。今回は、セミナー全体のまとめを掲載します。

 

〈午後の部②〉

1.全体質疑応答

2.まとめ

「くらしの中でのリテラシーを育む」齋藤ひろみ(東京学芸大学

「タイという環境の中でのリテラシーとは、育てるとは」池上摩希子(早稲田大学

 

≪全体まとめ≫

「くらしの中でリテラシーを育む」

学びの連続性の維持 : 移動前と移動後の子どもの学びをどうつなげるか

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齋藤:子どもたちは移動するたびに言語、価値観、それから習慣と言われるような行動様式が違うところに移ります。日本で生まれた子がしばらくしてからタイに来て、タイで暮らしているうちに、タイのさまざまな価値観を自分の中に取り込むので、日本に帰ったとしても、そのまま日本人、日本の環境で育った子とは違う文化をきっと持つようになります。そうすると、言語の問題、それから、大きく文化の問題などでこれまで学んできたものをすぐさま生かして学習することが難しくなるということが現実としてあります。そうすると、残念ながら、移動するとゼロからスタートということが起きる危険性があります。そこで私たち教育に関わる者、それから地域で支援をする者、そしてご家族としては、子どもたちの移動によって分断されてしまいがちな学びというものをつなぐということが大事になると思います

 移動が繰り返された場合も次の移動の時にこれまでの子どもたちの学びの経験をどういう選択をしたら生かせるのかという視点が大事だと思います。そのときに、もちろん親御さんとしてタイ語と日本語と英語のトリリンガルにという強い期待があることも分かりますが、それを実現する上でも、子どもたちが今までに学んだことを生かせる環境でトリリンガルを目指さなければ、きっとトリリンガルを目指したのはいいけれど、子どもたちがこれまで学んだことや経験を生かせなくて、苦しくて、学びについて前向きになれないとなれば、お母さん方が一生懸命準備した環境が全く機能しないということもあります。なので、これまで学んできたことを土台にしながら新しい学びをつないでいくためには、どういう選択がいいのかと考えていくことが大事だと思われます。

 生まれた場所も違えば、それまでに受けた教育、保育の違いは、移動する先の教育、シ ステムも違えば価値観も違うかもしれません。そうすると、やはり1人で、例えば、近くで何が正しいかも、今正しいと思う最善を尽くしますが、本当にそれが正しいかどうかは、その後どうなるかなので、選んだからオッケーではなくて、選んだ先、起きる困難というのを予測しながら学びをうまくつないでいくにはどうするかということを常に考えたいと思います。それは場所を変わっていく移動で、時間軸で変わっていくので時間軸の移動の中での学びの連続性を考えたいと思います。一方で、実は、皆さんのご家庭のお子さま方は家と学校、あるいは社会の中で日々往き来をしながら、そこの間にある文化間の移動もされているはずです。その学校と家庭を結ばれることによって、子どもはきっとその学校と家庭を包含している社会との結びつきをどこかで見つけられるのではないかと思います

 

社会参画する力について考える:ミャンマーの子どものスピーチの例

スピーチをすることになった経緯

齋藤:1つ事例を紹介します。子どもが社会的、歴史的な背景を背負い、親の都合で日本に移動したミャンマーの難民の子どものスピーチです。ミャンマーの難民なのですが、今は民主化しているので、既に難民として日本にやってくる方はいなくなっているはずですが、3年ほど前まで日本がタイなどのキャンプで自主的に退避していた方々を公的に呼び寄せる第三国定住難民という仕組みを実施していました。そのときに日本にやってきた生徒さんのスピーチです。ミャンマーは非常に他民族で構成されている国で、彼自身はカレン族です。ミャンマーの中ではビルマ族が政治的にも経済的にも力を持っている民族です。一方で、カレン族というのはさまざまな民族間対立の中で、彼らだけが虐げられたとは言いにくいですが、ビルマ族に比べれば力が弱いという状況の中で難民でした。小学校高学年で日本に来て、スピーチをした時が中学校2年生でした。このようなスピーチでした。

 「戦争の元は太平洋戦争だった。家の近くに英国軍の基地があり、日本軍が空爆してきた。僕たちカレン族は山に逃げ込んで難を逃れた。しかし、ビルマ民族はカレン族が何か企てていると誤解して攻撃してきた。カレン族ビルマ軍に対抗しようという人々と、逃げて生き抜きたいという人々に分かれた。僕の母はタイとの国境の辺りに逃げ、山で暮らしていた。そして、僕が生まれ、3歳になるまで戦争は続いた。」そこでずっとキャンプ生活をしていましたが、小学校高学年になる頃、「ようやく平和が戻った時、日本に来るチャンスがあった。母は外国に行って、子どもたちにもっと勉強させたいと日本に来る決意をした。」と言っていました。彼は日本の田舎に定住したんです。「僕は田舎に来たが、この考え方はとってもよいと思った。小学校に入ってから、みんなが声をかけてくれる。親切な人が多かった。日本語を早く覚えられた。」と言っていました。そして、カレン族の旗の意味は青と赤とがあるんですが、青は誠実であることと言って、「僕はこの旗の青い色のように誠実に生きたい」というのが締めくくりでした。このようなスピーチができたのは、実は、彼が中学校に入ってから毎日学校の先生との日記のやりとりをするんです。その中に、少しずつ自分の国のこととかを書き始めたそうです。それを見て、担任の先生が、きっと今こそこの子に自分の出自であるとか、親御さんの歴史的背景についてもう一度考え、それを回りの子どもたちに伝える機会になる、今だと判断したそうで、日本語指導を担当している先生が子どもと相談してこのスピーチの準備をして、国際理解集会という場でスピーチをしてもらったそうです。

 

親と子の価値観:親子の関係づくり

齋藤:このスピーチを作る時に、彼は実は親御さんが来る決意をした経緯であったり、親御さんが戦時中にどんな経験をしたかであったり、あるいは日本に来てからどんなふうに感じていたのかということについては知らなかったそうです。子どもの場合、自分が文化間移動をしていても、来る前のことについて忘れてしまうということはよくあることです。そんな中で、親御さんとやりとりして作ったこのスピーチの中で、母親の気持ちや母親の経験を知ったわけです。それを少し私なりに考えると、親も子どもも移動する中で、自分のライフコースというものを実現していくわけです。ところが、親が育ってきた歴史と子どもが育つ歴史、それから社会的な情勢も異なります。実は日本語は共通していたとしても、持っている価値観や持っている文化自体がもはや親と子の間で違っている可能性があります。親が子どもに自分と同じものを持っていることを期待するということが、時に子どもにとっては非常に大きなストレスになることがあります。なので、期待してはいけないという意味ではないです。しかし、子どもは移動する中で、また親とは違う文化を形成しているということを常に心に留めておきたいと思います。そうした中での親子の関係作りが必要だと思います。

 

自信に繋がった社会参加

f:id:jmherat:20190317154523j:plain齋藤:実はグローバル社会の中で日々世界の情勢や国際化という状況が変わる中で、今ここがあるというお話がありましたが、ミャンマーの例を取れば、ミャンマーの国内情勢も民主化をして変わっています。そして、日本国内でもミャンマーの難民の人を公的に受け入れるという制度があって、日本国内でもそのミャンマーの人であったり外国の人に対する認知の仕方や受け入れの制度が変わってきます。そうすると、今ここで何が大事かという判断の時に、自分と子どもとの関係に加えて、社会の動きというものも視野に入れながら、何を選択するのが大事かとか、何が最善なのかということなどを、先ほどの子どもたちの学びの連続性を維持するということに加えて、社会との関連の中で検討していくが必要だろうと思われます。今回、私としてぜひ伝えたいことは、このお子さんがミャンマーについて日本の子に語ることで日本の子どもたちがミャンマーについての理解、あるいは難民についての理解を深めた。それが彼にとってはカレン族である自分というもののアイデンティティを意識せざるをえない。何々人という1つの言葉でアイデンティティを囲ってはいけないというお話をしましたが、もちろん自分のアイデンティティの1つの要素として何々人というのは必ずあると思います。それについて回りの子どもから理解を受けた段階で、自分の民族的アイデンティティに対して非常に誇りと自信を持ったと思いますし、それが単なる自分のアイデンティティではなくて、彼らに社会を知るという機会を提供したという意味で、先ほどライフコースというのは社会的役割の連続なんだ、連鎖なんだというお話をしたと思いますが、この学校の国際理解教育という文脈の中で自分が役に立っているということを実感できたと思います。それは今日のテーマで言うところの、社会参加をしていくためのスピーチ、日本語の力だったんだというふうに考えられると思います。社会というのはもちろん学校の外の社会もありますが、学校自体がある意味社会の縮図であり、学校の中にクラスの社会があり、学年の社会があり、学校の社会がある。そこで何かしら貢献ができるという経験を重ねることが将来的には彼が本当に学校を卒業して社会に出るときの、高校を決めたり、自信になったりということになるだろうと思われますし、その経験を今回のスピーチで彼はできたのだろうと思います。では、これは学校の先生の実践なので、私たちのとはちょっと関係ないんじゃないの?と思われるかもしれませんが、実は、お母様方がなぜタイ語と日本語を両方話してほしいかということをどこかで語る機会をぜひ持ってほしいし、お父様方がなぜ僕はニューヨークで暮らしていたけれど、今回タイに行くことにしたのか、職業の選択で何を大事にしているかというようなことを、何らかの形で伝えるような機会があるということが、彼らが、言ってみれば2つの言語を勉強しなくてはいけなくて負担が大きくて大変なのはお父さんお母さんたちのせいだと、もしかしたら思いたいところを、父も母も社会と向き合いながら生きていて、それを僕も応援したいんだと思えるような、そのようなきっかけになるようなやり取りをぜひしていただきたいと思います。

 

リテラシーの育成の観点で3つの発表へのコメント>
具体と抽象を行き来することの大切さ:石野さんの発表

齋藤:石野さんのお話を聞いた時に、常に具体と抽象を往き来できるような問いを投げかけているんですね。例えば、「協力したことがよかったです」と子どもが言った時に、「じゃあ、何をした時に協力できたと思ったんですか」でそこに具体が来るわけです。今度は抽象的なものを具体と結ぶ。一方で、具体をいっぱい羅列したら、「それによって何を学べたんですか」と、そういうふうにして具体と抽象の往き来をするということが、実は思考力を育てるときにとても大事です。どうしても家族間になると、私も母とそうなんですが、あまり語らない。「今日、どこに行くの?」「ん?大学」終わり。そこで自分を少し語ればよかったんだなって今日反省しているんですが、親子の関係でも、尋問のような問いはだめなんです。やっていることへの関心を示すような問いかけをスタートにして、具体と抽象をうまく往き来できるようなやり取りをされるといいのかなというのが1点です。

 

他者の支援とのアクセス:嶋田さんの発表

齋藤:嶋田先生が、よくできる親の場合についてどうですかという質問に対して、「分からないです」というお話がありましたが、よくできるかどうかはちょっと置いておいても、少なくとも子どもの学んでいることに関心を持って目を向けて一緒に歩もうとしているということはとっても大事だと思います。それが1点です。それと、自分にはそういう力や時間がないときに、周囲にあるリソースであるとか支援というものにアクセスして、そこで子どもが学べるような場を作るということをぜひ考えていただいたらどうかなと思います。それがお金があれば塾かもしれません。スイミングスクールかもしれません。お金がない場合、どうしたらいいだろうという時に、もし日本の学校であれば先生に相談して、保護者のボランティア活動を始めてもらったりということもあります。あるいは、学校の先生が親御さんに読み聞かせをその言語でしてもらう機会を作ろうといって、その親御さんたちの何人かいる違う言語の親御さんを呼んで、その方々の言語で読み聞かせをするような活動をする時に、そこにマイノリティの親御さんのコミュニティができて、それがお互いを助け合うきっかけになったりということもありました。なので、ぜひ自分でできなくても、それができる可能性があるところを外に求めるようなことをぜひなさるといいのかなというのを、先ほどのメッセージとして感じました。

 

子どもとともに頑張る:藤井さんの発表

藤井さんは実は、私が大学院で教えていた時にゼミ生として勉強し、低リテラシーの話とかを散々一緒にしていました。それが子育ての時にこんなに生かされるんだと思って、本当に親御さんの学んだことや経験したことを子どもと一緒にさらに深める。そして、新しい価値に心を開き目を開きチャレンジしていくんだという姿を改めて見て、きっと子どもはそれを見て、心強く思ってお子さんも頑張るんだろうなと思いました。子どもができるできないというのを要求するということと、自分が子どもと今から学ぶということをいつも並列で進んでいかれるといいのかなというのを改めて藤井さんを見ていて思いました。

 

「タイという環境の中でのリテラシーとは、育てるとは」

f:id:jmherat:20190317143141j:plain池上:1つには、例えば、漢字がいくつ書けるかとか、どのくらい文法的に正確な文が書けるかとか、どのくらい難しい長い文章が読み解けるかというような力も含んではい
ますが、それだけではないということはお伝えしてきました。そういう
スキルを組み込んだ、スキルをどうやって使っていけるかという力、そのスキルを使いながらどうやって社会とやり取りをし、自分がやりたいことをやっていけるようになるか、それができるかどうかというものをリテラシーだというふうに思います。私は、そう言っておきながら、でも、やはり読んだり書いたりする力は、大学などの上の学校に行くのに必要ですよねと言われて、それは全く否定するわけではないですが、そのベースになる力を育むということが大事で、それはこれまでのいろんないくつかのご発表にあったように、教え込むということではなかなか育たない。だから、リテラシーとは何か、育てるとはどういうことかというところがセットになって、今日のいくつかの発表の中にも表れてきているように思いました。

 

タイという環境をどう見るか

池上:私のタイトルに「タイという環境の中でも」と書いてありますが、この「タイという環境」というのをどう捉えるかですが、私自身が知っていることと全然知らないことがあって、リテラシーを育てるためにタイという環境をどう見るかということは、多分2種類あると思います。

 1つは、タイでのリテラシーというと、何語のリテラシーなのか。1つは、やっぱりタイ語と、ここに集まっている私たちは大方日本語が使える者たちなので、日本語だと思います。タイ語という言語がどんな言語で、日本語という言語がどんな言語で、もう1つインターという学習環境があれば英語というのが入っていて、それぞれがどんな言語かということが大事な観点だと思います。ここでいうどんな言語かというのは、例えば、日本語で言うと、漢字とひらがなとカタカナを使って書かれている。タイ語はタイ文字で書かれていて、表音文字でという、そういうことも含まれます。大事なことです。読んだり書いたりできるようになるためには、それも大事。もう1つ大事なことは、それぞれの言語がどういう価値付けを持ってその社会の中にあるか。つまり、タイという社会の中ではタイ語が読み書きできるということがどのぐらい大事なのか。英語が読み書きできるということがどのぐらい大事なのか。さらに言うと、日本語が読み書きできるということはどのくらい大事なのか。もちろんこれは、その子、その家庭、それからどういうふうに社会に出て行くかによって、今のどのぐらいへの重さが変わってくるのですが、その観点は非常に大事だと思います。それは、実は、私のタイ語がどんな言葉で、日本語がどんな言葉で、英語がどんな言葉で、勉強するのにどのくらいの時間がかかったり、どうやったら勉強できて、漢字の覚え方はというのは、私は日本語教師なので知っていることに入りますが、それぞれの言語がタイという社会の中でどのくらいの重み付けを持って、タイの社会の中で生きていくためにどのくらいの価値付けをなされているのか、ということは私は知らないことです。でも、リテラシーについて考える時には、皆さんが考える時、それを考えていただかないと、どうやって育てるかというところになかなか具体がつながっていかないと思います。

もう1つは、何語であれ、タイという社会の中で、実は、リテラシーを持っているか持っていないのかはなかなか言えないですが、文字が読み書きできるということをどのくらい大事なことだと思うか。日本という社会は日本語が読み書きできるということが前提なんです。小学校1年生から入っていって、読み書きを習います。だから、読み書きができない大人はいるんですか。います。でも、読み書きができなかったらアクセスできないものが山のようにある。つまり、読み書きができることを前提に作られている社会と言っていいと思うんです。だから、日本に来ている外国の方が日本語の読み書きができないと、ものすごく苦労する。では、タイという社会、もしタイの中でと考えるのならば。それをアメリカにずらすことも、日本にずらすことも、別の国にずらすこともできますが、その社会の中で読んだり書いたりできるということが、どのくらい大事なのか、必要なのかということも時に考えなければいけない。実は、そんなに読み書きを要求されない言語もたくさんあるわけです。例えば、家庭内言語と民族の言語と学校の言語と国の公用語というのが4層に普通にあって、普通に大学に行こうと思えば英語でしか大学に行けない国。つまり、その国の言葉では高等教育がなされない国もある。そうすると、家庭内言語というのは文字がない言語もあるわけです。部族の言語にも文字がないけれども、もう1つ上の読み書きする言葉というと、それは英語になってくる。公用語も英語だったり別の言語だったりという国は普通にあるわけなので、そこから考えた時に、私たちの足元に目を移して、私たちが言葉を作って生きる社会、子どもたちが言葉を作って生きる社会もその読み書きするもの、言語というのはどのぐらいの価値付けをされているのか。すごく大切なのは、やっぱりできるようになってほしいが、1つ、2つ、3つを一気にできるだろうかというところも考えなければいけない。つまり、どういうプライオリティを置くかということにも発展してきます。

 

タイの中でリテラシーを育むとは?OECDPISA調査にみる移民の子どもたち

池上:タイという環境の中でリテラシーを育むとはどういうことなんだろうと考えることを前提に持ってくる。例えば、嶋田先生のご発表の中で、国際結婚家庭の子どもの学力や日本語力と外国籍の親が使用する言語に関係性があるのかという問いを立てて調査を進めていらしたんですが、ここはここで調べたこととこんなことがかんがえられるのではないかということが出て、それに対する私からのコメントをしました。実は、今日のリテラシーの語り始めの時に、OECDPISA調査の話を齋藤先生のほうからしていただいたんですが、このPISA調査が移民の子どもと学力についても調べています。詳しくは、OECDPISA調査と検索すると出てきます。そこからすごく大ざっぱに私が読んだものを申し上げると、移民の子どもと学力には3つ、つまり、移民の子どもであっても学力が高い子どもというのはいるわけです。OECDの調査です。3つ要因があって、1つは家庭での支援。2つ目に語学力。これは語学力です。1つの、つまりその現地語だけではなくて、その子が持っているいろんな言葉の力。母語であったり、家庭内語であったり、第二外国語であったり、そういう語学力。3つ目が教育体制。現地の教育システムが与えられる教育のサポート。この3つが影響して、その3つがそろえば、移民の子どもも2世とか3世の子どもたちも学力はきちっと保証されているというように読めます。家庭での支援環境というのは、今日いろいろなお話もできました。語学力というのも複言語という形でいろいろな、つまり1つの言葉だけではないよという話もできました。教育体制というのは、私はこれが知らないことであって、もしタイという文脈の中でリテラシーを語る場合には、タイではタイ語を第1言語としない子どもたちにどういう教育の支援があるのかなというのを実は知りたいところではあります。ただ、OECDの調査では教育体制として、移民の子どもたちの学力を保障するために重要なのは、1つは就学前の支援。もう1つは新しく学校に入ったすぐの時の初期指導にどんな保障ができるかということが、やはり後々の学校文脈の中で子どもたちが学力を付けていくために必要だというふうに言われています。そこを考えなければいけないということです。

 

ドイツの事例

池上:ドイツの補習校の子どもたちの調査にも加えさせてもらっていて、その調査をする時に、ドイツに住んでいるドイツ人のお父さんと日本人のお母さんの国際結婚の家庭の子どもの言葉がどうなっていくかということを見ているんですが、現地校に通っていて補習校、土曜日だけ日本語を勉強している子どもたちで、当然ドイツ語の力のほうが強くなって、日本語の力はなかなか大変なんですが、今申し上げた要因の中でいくと、やはり家庭での支援という努力がすごくなされていますし、語学力でいうとドイツ語に比べたら弱いんですが、日本語の力を伸ばすためにも非常に役に立っています。教育体制に関しては、ドイツは移民がたくさんいるので、少しはありますが、その子たちはむしろそのサポートを受けなくても済んでいるにはなります。その時にやはり大事なのは、幼稚園から小学校に上がる時、それから、小学校中学年に行く時、つまり、勉強内容が難しくなる時。ドイツはもっと言うと、教育支援システムとしてギムナジウムという、上級の学校に進学できるかどうかが小学校の4年生から5年生でテストを受けて決まるので、そのあたりの大変さ。ギムナジウムに入ったあとに、今度は大学に選別されるアビトゥーアという試験を受けるんですが、そこの辺りにやっぱりちょっとまた切れ目がある。だから、その辺りで子どもたちの言語の力がどうなっているかということを調べています。

 

リテラシーの育成の観点で3つの発表へのコメント>

分断しない環境作り:プレリテラシーから小学校、高校、大学へ

f:id:jmherat:20190317160057j:plain池上:そういうことから考えると、石野さんの実践の中で小学校で書く力、それは伸ばすいろいろな工夫があったんですけれども、一番やはり大事だったのは今日もリテラシーの話の中にあった書き言葉による言語活動というのは結局認知的な力を伸ばすということが言われていて、それを目指しているかどうかということが大事なんじゃないか。それをやっていくことによって、子どもたちのリテラシーの力が保障されるかどうかというふうにいきます。その前を支えていたのが藤井さんのご発表で、学校に入る前に、プレリテラシーの段階で何をどのように育んでいったらいいかということがわかると思います。そういう時に接続が、そういうふうな形で石野さんの見ているお子さんと藤井さんのお子さんが具体的につながるわけではないんですが、学校に入る前、それから小学校の中学年から高学年にどんなふうに子どもの学びを、齋藤先生の言葉を借りれば、分断しない環境で、リテラシーというものを鑑みながら橋を作っていけるかということが非常に大事になっていくんじゃないかと思います。実は、そのあとに高校生、大学生ではどうだろうという松岡さんの話が続いていったと思うんですけれども、本当はそれは具体的なお話が、ご本人からはお話を聞けませんでしたが、それを全部リテラシーのほうにまた戻しますと、齋藤先生がキーコンピテンシーが3つ挙げられますよと言ったところにつながっていくように思います。そういう力をつけ、社会的な交流、それから人の力を借りるという意味での自立。自立というのは自分が何でもできるようになるわけではないわけです。自分のできることをちゃんと自覚して、人に助けてもらいながら自分ができることを伸ばすということができるような。そして、そこまでに身につけてきた道具的な言語の力をうまく総合して用いるということが大事。こういうことを読んだり書いたりする活動を積み上げていきながら、または読んだり書いたりする活動を続けていきながら力をつけていくということが大事です。これをまた、タイとの環境の中に戻した時に、こちらのお話をする時に、私が知っていることと知らないことというふうに話し始めましたが、そこを具体の1つのベースにして考えていっていただいて、それぞれの日常の中で実践として続けていただくことが大事だと思いました。今日伺った3つの報告もそれぞれの内容としてリテラシーをどう育むかということにつながっているように思いました。

 

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5回にわたり、第15回セミナーの報告をしてきました。齋藤先生、池上先生、そして発表者の皆様ありがとうございました。リテラシ-とは何か、どう育てるのか。発表と先生お二人のコメントも全て掲載いたしました。このセミナーは保護者、教師、そして子どもも参加しています。この報告をお読みの方もそれぞれの立場で、気になるところからじっくり読んでいただけたら嬉しいです。

リテラシーとは、読めること書けることそれ自体ではなく、行動や活動に繋がる読む力書く力のことでした。その力で子どもは自分で社会との関係性を築いていけるのです。

「学びの連続性」「具体から抽象へ」キーワードがたくさんありました。

特に移動の中にある私たちの子どもたちには、学びの連続性を意識しなければなりません。幼児期から学齢期、そして青年期へという時間軸の上の連続性。そして、学校や国境など、言語環境が変化しても子どものそれまでの学びが分断されず連続されること。それを意識して家や学校の環境をつくることが大人の仕事になるでしょう。そして何より私たち大人が子どもを見つめ、何が必要なのか考え、子どもにとって意味のある存在であること。私たちが子どもにとって関わりたい社会であること。そこを目指し、研究会も活動を続けていきたいと思います。

 

タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会(JMHERAT)

運営委員

 

親は一人一言語の原則で接するべき?

第15回セミナー「複数の言語・文化で育つ子どものリテラシーを考える」報告(4)

子どもを育てる、ことばを育てる

―複数の言語・文化で育つ子どものリテラシーを考える―

 

2019年3月17日(日)に終了した第15回セミナーの4回目の報告をします。今回は、最後のまとめとして行った全体質疑応答を報告します。  

 

〈午後の部②質疑応答〉

<石野さんへの質問:国語辞典の使い方>

質問1:国語辞典で調べる癖付けをする工夫を教えてください。

f:id:jmherat:20190317151402j:plain石野:私が受け持っている高学年は国語辞典の使い方自体は既に学んでいますが、国語辞典を自ら使うかというと、そうではありません。なので、国語の時間には必ず国語辞典を用意させています。子どもたちは残り時間を発表したり、カウントを始めたりすると急に動きが速くなったりします。また、何かがあったら埋めてみたい、競ってみたいという気持ちがあるので競うことをたくさんおこないます。例えば、1)言葉集めを班対抗戦でやる、2)「あ」の付く言葉等、指定をする、3)四文字で真ん中に「ひ」が入る言葉等を指定する、などです。国語辞典をたくさん使えば使うほどゲームに勝てたり、みんなで協力すればうまくいくなどの体験をたくさんさせるように心がけています。国語の授業時間のうち2、3回は言葉についての質問をしながら学習を進めています。子どもたちにとって使っている言葉だが説明ができない言葉がたくさんあります。私自身も辞典を引き、子どもたちも辞典を引くというスタイルで一緒に活動をします。2、3人辞書が違うので、発表者を一人で終わらせずいろいろな発表の機会を与え、自分が調べたことを共有し、みんなに「はあー」と言ってもらえるような体験をたくさんさせるようにしています。

 

<嶋田さんへの質問:できる親とできない親と、その子どもとの関連性は?>

質問2:単純にできる親の子どもができが良く、できのあまり良くない親の子どもに課題が目立つという可能性はないですか?

f:id:jmherat:20190317151752j:plain嶋田:その子どもの親ができる親かできない親かは、私には判断ができないのですが・・ただ、1つ言えることは、『親が関心を持っているか、持っていないかの差』は本当に大きいと感じています。関心を持て、持てと言うが、日本語が得意ではない保護者は関心を持とうにも持てないために学校との距離が開いてしまっていると感じます。だからこそ、学校ができる支援として、親にも感心を持ってもらうという工夫が必要だと感じています。バンコク校に比べてシラチャ校では学校に親が来ることが普通の状態になっています。学校と親との距離が近いため、国際結婚家庭の子どもとの差が少ないです。私が担当をしているクラスにも日本語が苦手なタイ人のお母さんがおり、初めはなかなか来てくれませんでした。しかし、おそらく子どもが少しずつ変わりつつあるのがすごく楽しかったのか、全く分からないであろう懇談会に来てくれるようになりました。保護者同士での話し合いの場では、おそらく一言もしゃべらなかったが最後までいてくれました。そのぐらいの時期から子どもが明らかに変わってきています。これをみると、保護者が少しでも興味や関心を持つことと、子どもがやる気を持つこととなにかつながりがあるのではないかと思います。親のサポートは勉強ができなくてもいいと感じます。

 

深澤:日本人学校は私もバンコク校とシラチャ校、両方訪問させていただいています。シラチャ校に行って驚いたのは、校門へ子どもたちが入る時に親もどんどん入ってきます。タイ人の親も日本人の親もどんどん入ってきて、先生と挨拶して、子どもたちに手を振って帰るのです。嶋田さんは国際結婚の子どもたちのことを調査しており、「シラチャ校に行ったら問題が少ないんですよね」って言ってらしたのが、あのことなのかなと思いました。

 

<親のサポートはどすればいい?>

質問3:子どもはタイの学校に通っています。自分があまりタイ語ができないので子どもの学習サポートをどうしたらいいか不安です。

石野:私の母はタイ人で、私は日本で育ったので、同じような境遇でした。宿題をする時に母は私が音読するのに合わせて一緒に音読をしてくれたり、近所のお兄ちゃんからもらった教科書や漢字ドリルを持ってきて、一緒にしてくれました。別に私は教えてもらわなくても、母がその場で一緒に時間をすごしてくれただけですごく幸せな思い出として今も残っているので、あまり気負わなくても大丈夫だと思います。

 

深澤:まず頑張っている子どもの横で共感してあげるということですね。

 

<親は一人一言語の原則で接するべき?>

質問4:子どもと接する時に母親が日本人なら日本語だけ話し、父親がタイ人ならタイ語だけで話す、といった一人一言語の原則にのっとった対応に関してどう思われますか。

 

体制としての学校の在り方と、家庭は同じではない

f:id:jmherat:20190317153133j:plain齋藤:バイリンガル教育の研究の中では一人一言語と言われています。実際にイマージョン教育を実施している学校の中では何曜日は何語とか、○○先生は何語というように決めています。それは、学校の教育目的としてバイリンガルを育てるというのがあり、それが教育的なゴールになっているからですバイリンガル教育をうたい、イマージョンをうたい、うちでは徹底してやっていますという学校の先生が本来タイ語を話すべき時に英語を話したりしたら、「それはだめでしょう」と学校の経営側が言うべきですし、親御さんたちも要求していいと思います。学校にはカウンセラーがいて、そうした2言語の中で困っている子どもたちの心の面でのサポート体制があってこそできることだと思います。ですが、ご家庭の中でどうかと考えた時に、小さい子は愛着という言葉が出てきましたし、石野先生はお母さんが隣で一緒に座ってくれるだけで幸せだった、一緒に勉強に向かってくれるだけで嬉しかったとおっしゃるように、子どもの今の心の状態を見て、父親と母親が一人一言語を通すことがその子にとって幸せなのかというところで判断する必要があると思います。なので、バイリンガル教育で紋切り型に言われている言葉を金字塔のように守らなければいけないということでは決してないと思います


池上:一人一言語対応は理論がきちんとあり、理論的に十分成立します。それで成功するバイリンガリズムというものもあります。ただ、それは理論ですから、一つ一つの私たちの目の前にある子どもと自分の実態がどうであるかということで考えれば、そんなに拘らなくていいと思います。日本に住んでいる中国から来た家族の話です。父親と母親は子どもたちに中国語を忘れてほしくないため、子どもたちが大きくなるまでは家庭では中国語で話していました。しかし、子どもたちは日本語が上手になり、中国語を話すのが面倒になってきたため家庭の中で日本語を話すようになっていました。父親と母親は困り「どうする?」と考え、父親が一番日本語がへたくそだったので父親が帰ってきたら家庭では中国語を話すことにしました。兄弟どうしでは日本語で話しをします。父親が帰ってきたら中国語、それまでは日本語という場面での切り分けや、人に対する切り分けでもあります。父親は家庭の中で大事だから父親が仕事から帰ってきたら家庭の中では中国語を話す…そのように誰にどの言葉を使うのがいいか家族で選択をして話していたと聞きました。それは、今申し上げた理論としてのある部分は踏襲しながら、今の目の前の家族の事情にどのように適応したかという1つの例ということで話しました。

 

 会場からの意見:家庭ではできれば一人一言語を

意見:自分の経験からいうとうまくいっている家庭というのは、お母さんが頑張って日本語を通してきた家庭が多かったです。自分の子どもが自分の国の言葉を話してくれないとさびしくなる。本人にとっても日本語が話せるということが非常に武器になる。ですから、私の感想からいくと、できれば一人一言語、頑張ってほしいと思います。

 

f:id:jmherat:20190317152840j:plain池上:親の言葉をどうにかして子どもに伝えたいという気持ちは継承語という意味でよくありますし、その気持ち自体がだめだというのでは全くなくて、でも、そこで生まれてくる関係性の中で、じゃあ、何を日本語プラスアルファの言葉を親と子どもが作っていくかということがとても大事なんだなというふうに思っています。

齋藤:蛇足ですが、お父さんが英語の人で、お母さんがフランス語の人で、おうちの中でお父さんは子どもに英語しか使わない。お母さんは子どもにフランス語しか使わない。そうすると、子どもは英語とフランス語を両方使って成長するので、英語もフランス語もできる子どもになるというのが理論ですよね。もちろん、それで(親は)一生懸命やっていたんですけれど、ある日、子どもが別のお友達の親に会った時に、え?どうしてなんとかちゃんのママは女なのに英語ができるの?(笑い)と言ったという。

 子どもにとってみれば、そういうことなんです。だから、まだ小さい子どもは人間と言語、何々語という切り分けはそんなにできていなくて、ママという女の親はフランス語を話し、パパという男の親は英語を話すという世界だったんです。そうやって、そこから、そうじゃないんだなという人間と言語の判別ができていくんですけれども。そうやって子どもは自分が認識できる社会を創っていく。その中で、誰と何語を使うといいんだろう。誰に対しては何語が使えるんだろうということも一緒に学んでいくと思います

 

深澤:子ども達は必要に応じて使えるようにしていますよね。それから、午前中もちょっと話がありましたけれど、家の中というのは一番話したいことを話したい。聞きたいことを聞きたい、聞かせたい、分かり合いたい愛着関係が育つ場所。だから、そこでは混ざっちゃうというのが現実であろうと思います。それが、子どもが、大きくなって自分がこのことをやりたいと思った時に、それが日本語の世界で日本語でできるのか、英語なのかタイ語なのかということになってくると思います。家の中で私はタイ語しか使ってはいけない、日本語しか使ってはいけないということですと、コミュニケーションが取れなくなっちゃうということが起こってきます。苦しくなってしまう。そういうことが起こります。家庭言語というのは、昔は絶対混ざり言語はいけないと言われていたけれども、それよりも家庭で子どもにとって何が一番大切かっていうふうに考えていく必要があるかと思います。言語を育てるために家庭があるわけではないですよね。

 

複言語・複文化状況とは、家の中のことばも文化も混ざっているということだと思います。混ざっているから○○語と独立した言語体系が育たないということではありません。混ざった世界が、広く豊かで、子どもの将来の認知力の基盤になり、幸福感の基盤になることが重要なのではないかと思います。 次回最終報告では本セミナー最後のまとめ「くらしの中でリテラシーを育む」(齋藤ひろみ)「タイという環境の中でのリテラシーとは、育てるとは」(池上摩希子)、お二人のコメンテータのお話を報告します。

タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会(JMHERAT) 運営委員

第6回 複言語・複文化​ワークショップ開催のお知らせ

見つめよう子どもの姿、考えよう子どもの現実

 ―親と子どもの話を聞こう 複言語・複文化を生きる7人の語り―

2019年8月25日(日)にワークショップを開催いたします。

2011年に始まった複言語・複文化ワークショップの第6弾です。
今回は言語マップのワークを行い、複言語・複文化を生きる語り手の話をききます。
言語マップでこれまでの人生の言語体験を整理し、語ることで、自分の複数性を実感し、そこから複数で生きる人間が持っている能力、そして複数性をリソースとして目指す能力について考えます。
7人の語り手の詳細は、こちらになります。
今年も、複数の言語と文化で育った学生と、親と教師が一緒に活動するワークショップを企画しています。
それぞれ経験の違う人からきっと多くのことが学ばれるはずです。
関心のある方は、どなたでも奮ってご参加ください。

参加申し込みはこちらの申し込みフォームからお願いいたします。
みなさまのご参加、お待ちしております。

日時 日時:8月25日(日)12:00〜16:30(11:30 受付開始)
会場 泰日経済技術振興協会日本語学校
通称 ソーソートー(スクンビット、ソイ29)
講師 舘岡洋子氏(早稲田大学大学院)
参加費 200バーツ(学生:50バーツ)
定員 35名(8月17日(土)締切)※定員になり次第締め切ります
主催 タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会(JMHERAT)
協賛 トレイルインターナショナル校
協力 タイ国日本語教育研究会
問合せ JMHERAT[@]gmail.com ※送信には[ ]を外して下さい。

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複言語のこどもの土台は?混ざり言語と親のサポート

第15回セミナー「複数の言語・文化で育つ子どものリテラシーを考える」報告(3)

子どもを育てる、ことばを育てる

―複数の言語・文化で育つ子どものリテラシーを考える―

  

2019年3月17日(日)に終了した第15回セミナーの3回目の報告をします。今回は、午後の部の「事例報告」の発表概要、そして発表者・コメンテーターへの質疑応答とコメンテーターからのコメントを掲載します。

  

〈午後の部〉 

1.発表

タイ語幼稚園に通う娘のことばの成長」藤井瑞葉(保護者)

「日本社会で生き抜くためのリテラシー育んだ青年の事例」松岡里奈(泰日工業大学)

2.質疑応答(発表者へ・コメンテーターへ)

3.コメンテーターより

 

1.発表

・事例報告1

タイ語幼稚園に通う娘のことばの成長」 藤井瑞葉(保護者)

◆発表概要

f:id:jmherat:20190317142702j:plain夫の駐在のため生後7ヶ月でタイに来た娘は、4歳になり複数のことばに囲まれて育っています。日本人夫婦ですが、夫婦共に10年前後の海外経験があるので、タイでの子育ても何とかなると思っていました。しかし、駐在年数や次の赴任先がわからない状態で幼稚園を選ぶ段階になって「娘のことばをどうするか」という迷いが生まれました。「海外にいる間にいろいろな言語を」「読み書きは早いうちに」と考える親も多くいますが、私は悩んだ末、シュタイナー教育を取り入れている体験型のタイ語幼稚園を選びました。

 発表では、私が幼稚園を探すときに悩み考えたこと、入園からの1年半で起こった娘の変化、幼稚園で起こっていたこと、そして家で起こったことを紹介し、娘のことばの成長を支えていたものは何だったのか、幼児期に必要なことは何なのかについて検討しました。

 入園後1年半の娘の変化では、日本語もタイ語も、思っていた以上に広がり、それぞれのことばで「読み書き」への興味もでてきていました。また、言語世界に対する認識があり、言語間を行き来する力もつけ、ことばを自分の中に入れ、周りの人と触れ合い、関係性を築いていくことができるようになっていました。

 これら娘のことばの成長を支えていたものは、幼稚園で先生と娘の間に「愛着関係」が生まれていたこと、幼稚園が娘にとって安心できる場所であったこと、幼稚園での体験が主体的でやりとりがたくさんあったため、娘にとって親や周りの人と共有したい体験になっていたこと、そして、幼稚園と家庭を繋ぐものがあったため、親子で幼稚園での体験について対話する時間を多くとったことでした。つまり、幼児の子どもにとってことばの成長を支えるものは、「大切にされていると思える場所」で、どれほどの「ことばにして伝えたくなるほどの体験」をしているかどうか、そして、体験や気持ちの共有など「ことばにして伝えたくなる相手の存在と対話」ではないでしょうか。

 今回のセミナーのテーマである「リテラシー」を娘の事例と照らし合わせて考えると、就学前の幼児にとってリテラシーを伸ばすために必要なことは、この段階で文字が読めたり書けたりすることではなく、「はなしことば」の世界を充実させてあげることであり、それは、何語であれ「ことばにして伝えたくなるほどの体験」と「ことばにして伝えたくなる相手の存在と対話」があるかどうかだと思っています。

◆当日配布資料はコチラ 

 

 事例報告2

日本社会で生き抜くためのリテラシー育んだ青年の事例」松岡里奈(泰日工業大学)

※発表者の都合により、残念ながら今回の発表はキャンセルとなりました。セミナー当日はこの青年のことを書いた論文、松岡里奈(2016)「日本にルーツを持つタイの若者の自己形成過程に関する一研究 : 他者との関係性が与える影響に注目して」http://hdl.handle.net/11094/59673 が紹介されました。是非お読みください。

 

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2.午後の部 質疑応答(発表者へ・コメンテーターへ) 

質問1:藤井さんの子どもさんは、保育園の先生や子ども達と接触する中で、日本語に対する変な感じというものはなかったでしょうか。私は夫がタイ人で、娘がタイのローカル保育園に通っています。日本人1人だけなので日本語を話しても誰も分からないという状況で、日本語を話すのが嫌にならないか心配です。

藤井:娘の場合は、日本語に対して嫌になるという感じはなかったです。しかし、我が家の場合は、住んでいる場所が英語環境だったので、そこでは孤立していました。英語が話せず1人で孤立している娘を見て、友達を作れるように英語を習わせたほうがよいのかと悩みました。しかし、タイ語幼稚園に通っている娘にもう1つことばを学ばすことは負担になると考え、英語を習うことはしませんでした。ただ、娘にとって住んでいる場所が「〇〇ができない辛い場」になるのではなく、「△△ができる場」になるよう働きかけをしました。例えば、娘が「ハロー」や「サンキュー」などを言ったら、その娘の頑張りをすかさず拾い大袈裟に褒めて、自信をつけてあげられるようしました。つまり、できないことに目を向けるのではなく、どのようなことでも「できた」ことに目を向け、褒めてあげることで自信がつき、それがことばを話すことにも繋がるのではないでしょうか。

 

質問2:駐在が何年になるか分からないということで、小学校選びにも悩まれるかもしれないですが、今の時点ではどの小学校を考えていますか。

藤井:まさしく今悩んでいます。今後、まだ何年になるか本当に分からなくて。小学校に関しては、今は日本語が土台になってきているので、日本人学校に通おうかと思っています。

 

【子どもの「土台」ってなんだろう?】

質問3:日本語の能力が土台になっているという話がありました。(しかし話を聞いていると)何語が土台というよりは、「これをやるときはこれ」みたいな印象があったんですが、土台ということが実感できるような状況なんでしょうか。

藤井:我が家は夫も日本人ですし、私も日本人ですし、家では日本語しか話さないような家庭環境です。タイ語の幼稚園に行っていてもそこには日本人の友だちもいっぱいいます。日本人の友だちとやりとりをしている中で、娘にとって一番話がしやすい言葉、また、自分の感情を伝えられる言葉は日本語だと思っています。もちろん、タイ語や英語も広がってきていますが、自分の思いを表現するような言葉にはまだなっていないかなというように感じているので、日本語を土台というように使わせていただきました。

 

複言語の子どもの土台は〇〇語、〇〇語と切り離せず、統合的なもの

斎藤:多分、バイリンガルの子どもの捉え方を皆さんも考えられていると思うのですが、今日は朝からずっと複言語という言葉が使われています。気持ちをどの言語で表すのが得意かというのは子どもによって違うかもしれないですし、相手によって違うかもしれない。機能バイリンガルというバイリンガルの捉え方があります。その場合、例えば、家庭内でのおしゃべりは日本語。友だちと学校で理科の授業に参加する時にはタイ語。公園で近所の子どもたちと遊ぶ時には英語なんていうことが、もしかしたらあるかもしれません。タイの現地校に通わせているご家庭のお子さんでもあって、複言語という考え方であれば、それが統合した形で言語の力になっていると考えるのがいいと思います。何が土台になっているのかというところは、きっとさまざまな研究者によっても考え方の違いがあります。認知的な側面が大事だと主張する人は考えるための言語なのかと言うでしょうし、いやいや、もっと小さい子どもたちの教育に関心がある人は、さっき愛着という言葉が出てきましたが、親子の間で、あるいは兄弟や親しい人との間で愛着を感じられ、それを表現するときに使う言葉が土台なんだという主張もあると思います。何か1つの言語が土台だというような発想は今日の議論からすると少し危険かもしれません。ただ、何かしらの言語できちんと自分の気持ちを伝えられるということは、非常に大事だとは思います。

 

学校選択は今現在の状態からどうやって接続させていくかが重要

池上:藤井さんの発表と、今までの質疑を絡めて考えると、「小学校はどういうふうに?」と質問があったのは、多分、このあと勉強を積み上げていく年代に入った時に、どの言葉でそのようなことを選択するのかという質問だったと思います。特に、藤井さんの発表の中ではプレリテラシー(実際に文字を読んだり書いたりする前の段階で、文字を読んだり書いたりすることの良さや意味などを、文字を読んだり書いたりする活動のまねや遊びの中で体得していく段階)のところを日本語でしている。もちろん、その子にとってみれば、日本語で書いているかタイ語で書いているかというのは、お父さんは日本語人だからぐじゃぐじじゃって書いたお父さんへのお手紙は、「これなあに?」って聞いたら、「日本語で「おもちゃ買って」って書いてあるんだよ」みたいなもの。でも、相手がタイ語人だったら、タイ語でぐじゃぐじゃって。そういうことなんです。つまり、正書法にのっとっているか、文法と合っているかではなくて、その子にとっての書き言葉。「タイ人の〇〇ちゃんに書いたんだね。なんて書いてあるの?」って言うと、「お母さん、読めないの?これ、タイ語で△△って書いてあるんだよ」「そうなんだ」というやりとり。これはプレリテラシーの段階であって、日本語のひらがなが書ける・書けない、タイ語のタイ文字が書ける・書けないとかではない。こうやって書くことによって文字が表記できる。文字が表記できたことによって、ここにメッセージが残せる。その残したメッセージを人に渡すことによって、相手に意味が渡せる。そういうことを知っていて、使っているということなんです。そういう体験と知識があってこそ、正規の読み書きを習う段階、学校教育の文脈に入った時に、こういうことなんだなって内容にスッと入っていけるということがあろうかと思います。ですので、学校に入る前の段階で、そういったことを知ることや、そういったことで一緒に言葉遊びをすることが大事だと言われていることなんですね。藤井さんの発表の中のプレリテラシーの萌芽(ほうが)に関しては、おうちの中でそれがやられていて、萌芽が見えたということでした。今回は土台という言葉がから話が始まりましたけれども、藤井さんの子どもさんの場合、プレリテラシーを日本語という言語で今つけつつあるので、そこを接続させたいということで、小学校を選ぶというふうに見ていらっしゃるのだと思います。それが、そうしたら今できているタイ語を同じぐらい伸ばせるのか、今分かっている英語を同じぐらい伸ばしてトリリンガルになっていくのかという問題ではなく、今現在の状態からどうやって接続させていくかという形で選択されているんだなということです。

 

【「ルー大柴語」のように混ざっていてもいいの?】

質問4:私の場合、娘も夫もタイ語を話しているので、つい「早くアップナーム(タイ語:シャワーを浴びなさいの意)しなさい」みたいな「ルー大柴語」を話してしまっています。複数言語を混ぜて話していても大丈夫なのでしょう。

 

まざっていてもその人の言語。否定してはいけない。意味あるやり取りの中で仕分けていける。

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池上:そういう状況というのはありますし、ルー大柴さんが有名になっちゃったのでルー語といいますけど、それを、例えば、私は名前が摩希子なので、まきちゃん語って自分で言えば、それは自分の言葉をそう認識していることになります。ですから、そんなに危機感を持つ必要はないんじゃないかなと思います。ただ、やっぱりそうは申し上げても、このまま混ざったまま、ぐじゃぐじゃになったらどうしようというのはそれぞれ共通の心配事であるかと思います。やはりいつどこで誰と何を話すときにはこれというのを、段々自分で分けて捉えて出せるようになっていくんだということ。それには、どのようなやりとりを具体的にしていくかを考えてサポートできればいいんじゃないかなと思うんです。「混ぜちゃだめだよ」「そういう言葉を入れたら変だよ」というのは、実はその子にとってみれば否定されたことになって、その子の段階によっては「どこがなぜいけないのか分からない」ということにもなりかねませんむしろ今そういう状態なんだなという把握と、次には誰といつどこで何のときにどういうふうに仕分けていってあげようかなということを考えながら、今の発表につなげて考えていければ、意味のあるやり取りを作っていく段階で段々分かっていき、上手に分けていけるようになると思うんです。

 

混ざっていてもかまわない。しかし、社会参画の形によって、〇〇語ということが必要になる。

斎藤:内輪のコミュニケーションはルー大柴語でも何でも、相手ときちんとコミュニケーションができて意思の疎通ができて、何のために話しているかというのが伝わって、相手に求めている行動をしてもらえたら、それで大丈夫だと思うんです。ルー大柴語をしゃべる人がみんないたら、ルー大柴語がメインストリーム。それでいいかもしれない。けれども、例えば、将来的にある領域で研究をしていきたいと考えて、その研究をしていく上で研究の場所として日本を選んだとします。日本語で研究をするとなれば、やはり日本語で研究論文を読んだり研究したことを書いて表現するという力が求められます。なので、子どもたちが将来に向けて、どんな形で社会に出て行くのかということを、もし決める時期が来たり、あるいは決める上で、予備的に力を付けてあげたいなということが親御さんと子どもとの間でいい具合に同意ができているか。ある言語について、読み書きについて、一定程度の知識とスキルを高められるような教育を意図的にしていく必要があると思うんですね。そのときに、石野先生が話されたような活動を家庭でしろとは申し上げにくいんですけれども、あそこにたくさんヒントがあると思います。少しながら例として、私の恩師の息子さんはキノコが好きで、小学校に入る前からキノコ事典を見ていたそうです。おしゃべりは割とつたないけれど、キノコ事典に出てくるキノコの名前とキノコの系列などはいくらでも話せる。そこの興味からキノコの専門の言葉を知り、それを人に伝えるために「このキノコとこの菌は何とか科で共通しているんだよ」といった言葉を一緒に獲得していったりするということもあるんです。

なので、その辺りはそのあと自分が社会にどういう専門と言いますか、社会に参画する人間としてどうイメージするかというところと組み合わせながら、何か読んだり書いたりできる言語というのも1つはあったほうがいいかなと思っています。ただ、「これじゃないとだめよ」と言った途端に嫌になると思いますので、気をつけないといけないなと思います。

 

【子どもの学校言語ができない親はどうやってサポートすればいいのだろう?】

質問5:私は国際結婚をしていて、子どもはタイの現地校に通っています。父親として学校の用事や宿題にうまく対応できないことがあり、結構悩み事です。子どもの学校言語ができない親は、子どもの学校生活や学習をどうサポートしたらいいですか?

 

藤井:子どもが「タイ語で先生と話ができない。先生に言いたいことが全部言えなくて嫌だ」と言ったことがありました。私の分かる範囲で娘が先生に伝えようとしていたことを一緒になって考えて、機会があったらその先生に会ったときに一緒に話をしました。私もタイ語ができないので、あまりできなかったんですけど、一緒に娘に寄り添って問題を解決しようとしました

 

嶋田:宿題を持って帰ってきた場合、英語はまあまあ分かるんですが、タイ語は私もよく分かりません。でも、子どもは「こんなの書いたよ」ととても自慢げに見せるんですね。私はとりあえず「上手だね」「きれいだね」「いいね」「何って書いてあるの?」と。子どもは、それで満足しているようです。そういうのくらいしかできていないです。逆に言うと、嫁さんが、一応日本語はできますが、息子の宿題を見る時にサポートできないって言うんですけど、とりあえず声をかけてあげてと言っています。特に、内容をどうこうというよりも、来たものに対して自分の言葉でそのまま関わっているかなと思います。それがいいかどうかは分かりません。ただ、無視はしない、関わっているかなと思います。*嶋田さんも国際結婚のお父様で、3人の子育てをされています。

 

親が苦手な言語を学ぶ過程を共有し、解決の方法を見せる

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斎藤:(学校と外国人の親の例としては)タイの国として、外国人のお子さんの教育についてどういう教育政策を持つのかということも、今後検討していってもらう動きは必要かなという点です。今どうなっているか存じ上げませんし、そのことについて話し出したら永遠に終わらなくなると思うので、まず、日本のお子さんに限らず、いろんな国から来ていらっしゃるお子さんの教育について、国としての政策をタイ政府にもう少し求めてみてもいいのかなというのが1つです。さっき移住というお話もありましたけど、さまざまな国からタイに来て住んで、タイの社会を形成していると思うので。それ以外では、お父さん自身がタイ語を学ぶ姿を子どもに見せるのはとても大事かもしれないです。学びなさいという意味ではないです。子どもがタイ語で苦労して勉強しているときに、分からない単語があったら一緒に辞書を引きます。日本語の意味が出てきたら、お父さんはその意味が分かります。そうしたら、日本語で子どもとコミュニケーションをしている中で、タイ語では説明できなくても日本語で説明して、一緒に問題を解いてみようかとか。全部しなくてもいいと思うんです。宿題できた100個のうちの2個でもいいと思うんです。そういうふうにして親御さんも努力しながら、僕がタイ語で分からないところを一生懸命手伝ってくれているという姿とかで、子どもたちが頑張ろうと思うのが1点だと思います。それから、辞書を引いたりとかの解決の仕方について、大人として一定程度のスキルがあると思うので、それを一緒にさせてあげれば、「なかなかお父さんからサポートをもらえないけれども、そうだ、お父さんはこうやってこの問題を解決していたから、私も変えてみよう」とか思うかもしれません。OECDの「自律的に」という言葉があったと思うんですが、ある程度自律的に学ぶためには、スキルやストラテジーという知識も必要です。全てをカバーできなくても、内容コンテンツじゃなくて、困った時にどう解決するかということを一緒に見せてあげるというのもいいのかなと思います国内の外国人の親御さんたちもみんなそれで苦労しています。例えば、国内の先生方で一生懸命努力している方は、算数の新しいかけ算の九九の勉強をしたときに、日本語の読み方のほかに、お父さんかお母さんに自分の国のことばでかけ算の読み方を書いてきてもらいなさいと声をかけたそうです。そうすると、親とのコミュニケーションができると同時に、お父さんお母さんも子どもの教育に関われる。それによって、全てが解決するわけじゃないんですが、親御さんも一緒に自分の学びの苦労を理解してサポートしてくれているという状況を、家庭内でうまく作り出せるような仕掛けを作っている人もいます。全部何もかもとはできないと思います。

 

深澤:あまり一人で全部抱え込まずに、自分の支援を受ける力もまた磨いていかれたらと思います。

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3.コメンテーターから発表者へのコメント

ことばの成長を支えるために大切な3つの観点

池上:今の皆さんとのやり取りの中でいくつも大事な点がでてきていましたし、一緒に考えたいこともたくさん出されたかと思います。もし、何かコメントをするとしたら、親として思うこととして一番最後に3点

 ⑴「自分が大事にされている、大切にされていると思える場所」

 ⑵「タイ語であり、何語であれ、伝えたくなるほどの体験」

 ⑶「共有や振り返りなど、伝えたくなる相手の存在と対話」

と、大事なことを藤井さんが出してくださいました。これは多分、小さな子どもや日本語を勉強し始めた子どもに限らず、いろいろ悩んでいる最中の成長している途中の子どもたち、それから、もしかしたら大人にとっても、コミュニケーションをしようかなと思い、仕掛けていって、実際にコミュニケーションをするための大切なものではないかなと思って聞きました。それをどのように具体的に把握して、まわりが支えていくかは、やはりその子どもの発達段階や年齢、今置かれている状況、どういうライフを生きていこうとしているのか、どんな形で社会に参画していこうとするかによって、変わってくるんじゃないかなと思いました。

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午後は保護者の発表でした。この発表から、複言語で育つ子どものことばの土台とはどのようなものなのか。混ざった言語使用をどう考えればいいか。複言語で育つ子ども現状を考える貴重なやりとりがおこなわれました。親と子の使用言語が一致しない場合の親のサポートはどのようにすれはいいのかという問題も切実なものです。モノリンガルで育った親や教師が、子どもの複言語状況を複言語能力観で捉え、その力を成長させるためには、このようなやり取りを繰り返しおこなうことが重要だと改めて感じました。

 次回は、「リテラシー」を巡る全体質疑応答のまとめを掲載いたします。

 

タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会(JMHERAT)運営委員

どうしたらリテラシーを育てられるのか?

第15回セミナー「複数の言語・文化で育つ子どものリテラシーを考える」報告(2)

子どもを育てる、ことばを育てる

―複数の言語・文化で育つ子どものリテラシーを考える―

  

2019年3月19日に終了した第15回セミナーの第2回報告です。社会的存在としての人生を構築し、活動していくための力「リテラシー」はどう育成すればいいのでしょうか。今回はリテラシ―育成を目指した実践及び調査の紹介、そして各発表への質疑応答とコメンテーターからのコメントを掲載します。

  

〈午前の部〉 

1.発表

「自己表現としての書く活動 ― 高学年を中心に ― 」石野有希(小学校教諭)

「国際結婚家庭の児童生徒への支援の可能性」嶋田俊之(小学校教諭)

2.コメンテーターとの質疑応答

3.コメンテーターより

 

1.発表

「自己表現としての書く活動 ― 高学年を中心に ― 」石野有希(小学校教諭)

 ◆発表報告概要

(1)「作文を書く」f:id:jmherat:20190317105539j:plain

「作文を書く」と聞くと顔をしかめる子どもがいる。小学校の学習で「作文」を書く場面は多いが、淡々と事実を述べ、ありきたりな感想を述べる文章がしばしば見られる。子どもたちにとって作文は、型にはめればマスを埋められる一種の作業のようだ。そこに自己表現はあるのだろうかと疑問を感じていた。国語、日本語の得手不得手に関わらず、どんな子どもにとっても「書いてみたい」と思える課題、「使ってみたい」と思える表現方法の提示を日々模索している。以下、子どもたちの「作文を書く」喜びや楽しみを見出すために、実践した内容である。

 

(2) 子どもたちの「書いてみたい」を高めるために

まず、子どもたちに「書いてみたい」と思わせ、意欲を高めるためにできることを考えた。

①シートの工夫

作文用紙を目の前にすると苦手意識を感じることがある。そのため、作文用紙にこだわらず、便箋を用いて相手意識をもって書かせたり、記者になりきって事実を伝える新聞作成を行ったり、強調したいフレーズを際立たせてポスター形式を取り入れたりした。また、ワークシートを用いて、構成に事象をあてはめたり、自らの感じた五感を書き入れたりし、自分の考えを整理させたうえで作文を書くための手掛かりとさせることもあった。

 

②題材設定の工夫

「もしも魔法が使えたら」など、子どもたちの心をくすぐるテーマを設定すると、目を輝かせて思考を巡らせる。夢中になってマスが足りないほど書く子どももおり、他の子の作文に対しても興味を持ち互いに交流を始める。事実のみを羅列しないように、「最も印象に残ったこと」などに焦点を絞って書かせることがある。また書き終わった作文に対して、「どうして」「どんなときに」などと繰り返し対話することで、具体を引き出し、付け加えて書き加えさせる。子ども自身が語りながら自分の考えを整理し、書いた文章を読み直しながら推敲する姿が見られた。

 

③交流活動

発表会をして聞きあったり、作文を読み合ったりする場を設けた。作文について話をすることで、書き手は今後より伝わるための工夫を見出したり、伝わることの喜びを感じたりしていた。また、聞き手は同じ体験をしていても思考に違いがある面白みを感じたり、友達の新しい一面を見つけたり、その子の良さを再確認したりすることができていた。交流は、友達同士とだけではなく、教師や家族といった大人とも行うことがある。

 

(3) 子どもたちの「使ってみたい」を促すために

さらに、より表現を広げていくためにできることを考えた。

①作品例を示す

同年代の作文例を多く示す。はじめの部分のみ示していくと、続きを知りたくなるものがある。魅力的な書き出しになるよう工夫する姿が見られた。また、全文を読みその良さを話し合う。言葉を吟味してテンポの良さが生まれていることや五感を盛り込んで追体験できるなど次々と気が付いていた。自分たちで見つけた良さは、自分の作文にも生かそうとする。

 

②言葉を指定する

必ず入れるようキーワードを指定することもある。また、NGワードをより入れることもある。例えば「いろいろ」「さまざま」を書かないように指定したり、子どもたちの書いた作文の中に繰り返し登場する語句を「1回まで使う」と限定させたりすることで、自分の言葉を紡ぎだそうと努力する姿が見られ、具体的な姿が見えてくることによって作文に個性が生まれていく。

 

③物語文から表現を学ぶ

物語文で情景描写を学習すると、すぐに取り入れる子どもがいる。また、優れた表現だと感じるところに印をつけさせ書き出していくと、擬音語や擬態語、複合語という言葉の豊かさに気付いたり、比喩や反復、倒置など技法の多様さに気付いたりする。気が付くと自分でも、取り入れてみたくなる。子どもたちが積極的に新しい工夫をするとき、それを紹介することで、他の子も使ってみようとし、広がっていく様子が見られた。

 

④語彙を増やす工夫

擬音語、擬態語や複合語などを学ぶと、子どもたちはどんどん集めたくなる。「言葉調べ」に取り掛かると、自主的に「言葉集め」を行っていく。自分で調べたものは、使ってみたいと思うようで、実際に作文の途中でノートを見返し、使用している姿が見られた。

 

(4) 最後に

誰にでも書ける表現ではなく、その時その場にいた人だからこそわかることがある。一人一人が見て感じた世界を、抱いたその時の思考を、「書く」という自己表現を通し、深め、楽しみ、周囲に発信していける子どもを育てたい。同じ場所にいても、一人一人捉えたことは異なっている。だからこそ、おもしろい。自分の見たもの感じたことに、一番近い表現を選んで文に表わしていくことで、自分を見つめることができる。それを読み合うことで、お互いを理解し、尊重し合うことができる。そんな楽しみを「書く」ことに見出していってほしいと、願っている。

 

質問:学生(児童)の作文へのフィードバックで気をつけているポイントはなんでしょうか。

石野:私からのということもありますし、子どもたち同士のコメントでもそうなんですけれど、否定しないということが一番かなと思います。温かい気持ちでその子が思っていることを肯定してあげたり読み取ってあげたりということが学級作りとか仲間作りにもつながりますので、そこは意識しようと思っております。

 

  • 小学校の調査報告 −子どものリテラシーと家庭の関わり−

「国際結婚家庭の児童生徒への支援の可能性」嶋田俊之(小学校教諭)

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嶋田俊之(小学校教諭)さんが発表してくださった小学校の調査報告の発表概要、また嶋田さんとの質疑応答は事情により掲載していません。運営委員(勇)の感想とセミナー参加者の感想(一部)をもって発表のご報告とさせていただきます。

 

◆感想(第二回報告ブログ担当運営委員:勇)

嶋田さんの発表は、嶋田さん自身が小学校児童とその保護者の方々に日々ふれあいながら、個人的に感じた疑問を出発点に実践した調査を基にしたものでした。その疑問とは、「家の中を学校の学習言語環境と同じにすることが、子どもの学力を伸ばすために必ず必要なのか」ということです。嶋田さんの発表に関して特筆すべき点は二つあります。一つ目は、抱いた疑問をもとに嶋田さんが調査をしてみたという事実。そして二つ目は、その調査から嶋田さんが見つけた「大事なこと」を今回私たちの研究会セミナーで共有し、参加者のいろいろな立場や考え方を持つ方々と一緒に考える機会を提供してくださった、という点です。その「大事なこと」というのは、(1)「学校の学習言語が苦手な保護者を、孤立させず子どもの学習活動に参加してもらう」(2)「学習言語にこだわらず、自分の得意な言語で、気持ちをこめて子どもと関わる」(3)「言語が何かということより、子どもと一緒に過ごす時間を十分にとることが大切」ということです。下に掲載した斎藤先生と池上先生のコメントとも重複しますが、嶋田さんが起こしてくださったこのアクションこそが重要だったと感じています。問題があれば実際に何が問題か調べ確かめる。そこから支援すべきことを明らかにしていく。それこそが子どもたちの現実に添う支援を考えるために私達教師に必要なことだと感じました。

 

【参加者からの感想】

・嶋田先生の発表がとても印象的でした。今回、自分自身が子育て中(ハーフ)のため、今一番悩んでいることでしたので。データ、アンケートに基づいた分析と発表であったので、説得力もあり、とても良かったです。こんなデータ、アンケート、今までみたことがなくしかも現役の先生からのお話で大変勉強になりました。(保護者)

 

・タイ人夫(日本語ができる)、母日本人、タイ現地校に通う2人の子を育てています。最近子どもが中学生になり、家族団らん時の使用言語がタイ語になることが多く少々焦りを感じていました。このセミナー参加で感じたこと。子どもが伝えたい、言いたいと感じることを共有したいと思う時、”この言葉で”と強要せず、心地よく伝えられる言葉で自由に語ってもらうことが大切なのだと悟りました。(教師)

 

・嶋田先生の報告が面白かったです。国際結婚家庭の子ども達をめぐる言語環境とその影響を数字で拝見する中で、校外での交流、特に仲の良い友達を作れる場を子どもに作ってあげることが大切と反省しました。(保護者)

 

・子どもの言語を伸ばすには、親の能力に関係なく、子どもに関心を持ち、子どもの環境と学校の学習活動にもきちんと関わり、学校や先生たちに任せきりにせず、支援するのが良いということを知った。もう少し子どもと向き合った方がいいと思ったし、自分も出来る限りタイ語に力をいれ子どもに頑張っている姿を見せるべきだと反省した。(教師・保護者)

 

・実際に現場で使われている内容をきけてとても参考になった。ダブルの子を育てる親としてとても興味深い内容でした。家庭で使う言語と学校で使う言語が違うといわゆる「課題が見られる児童」になるのではと心配していましたが、言語が問題ではなく、人との関わりが大切だと伺えて安心しました。(保護者)

 

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  1. コメンテーターへの質疑応答

前回報告した「セミナーを始めるにあたって」でコメンテーターが発表した内容についての質問です。

→お二人の発表は第15回セミナーの報告に掲載

「タイの状況:これまでタイで関わってきた経験から」池上先生

「社会参加を支える「読む力・書く力」―リテラシーの捉え直し―」齋藤先生

 

質問1:OEDCが発表したリテラシーの定義「社会的に異質な集団で交流をする」「自律的に活動する」「道具を相互作用的に用いる」は日本には合わないのではないでしょうか?

 f:id:jmherat:20190317123041j:plain齋藤:そういう側面はあるのかもしれないですが、そのままでは、これから多様な社会になっていく中で日本が成り立っていくのかと考えたときに、そうではないだろうと、
文部科学省もこのOECDを参考にしながら、新しい指導要領などでも「対話的」で「主体的」で「深い学び」というようなことを打ち出しています。それが1点目です。もう現実的な問題として外国人の子どもたちが国内でもたくさんいます。今、その子どもたちへの教育が学校現場でも課題として認識されつつあります。今日はこちらでリテラシー一般のお話をしましたが、私は通常は国内の学校教育において子どもたちへの日本語指導であったり、子どもたちが教科学習に参加するための言語の力であったり、学ぶための学習スキルといったものをどのように培っていくかということについて研究を進めていますが、課題は山積しています。そのような中で周りの子どもたちが彼らの存在を、今日のセミナーで言えば、複言語・複文化を持つ子どもとして、そのことを尊重しながら一緒に学んでいこうという価値観というものがまだ形成できていないというところが、国内の学校教育の中では今一番大きい問題になっています。子どもはそれでもそれを変えていける力を子ども同士の関わりの中で高めていったりできるんですが、教育する側のほうこそがなかなか変わりにくいという側面があって、そのようなところに今取り組んでおります。もう一ついえば、異質な他者というときに、必ずしも民族的、言語的な異質性だけではないんですね。今、日本社会でもダイバーシティという言葉が一般化していますけれども、簡単に分かりやすい側面、領域で言えば、特別支援を受けているお子さんや性的なマイノリティのお子さんなどもいます。

 

池上:私は障がい者ですから異質な者にはあたるわけです。そこまで広げれば、特に日本の特質であるとか、認識的な良い点と言われている点は、コンピテンシーが目指すものがあるわけではないということなんですね。目指すところというのは、お互いがお互いを認め合って、それこそ穏やかに暮らすための力というのは何だろうかということを考えることによって分かるものなんです。

 

深澤:ありがとうございます。初めにお見せしましたように、私たちの学生は同質のように見てきましたが、実はいろいろ違いがあった。同じように日本人は同じようだと見えているだけで、その人たちが抱えているものはそれぞれきっと違うだろうと思います。そこを出発点にしたいと思っています。

 

質問2:言語とアイデンティティに関する研究はありますか?

池上:はい、そういった研究は大変盛んになされています。今日のお話から言うと、最初に深澤さんのほうからご紹介があった言語ポートレートがありましたね。人の形の中にいろいろなものが混ざっていて、つまり、一人の人間の中に英語があってタイ語があって日本語があってというように、数えられる形で言語があるわけではなく、混ざった状態、複言語という状態があるのだという考え方があるのですが、アイデンティティもそういったもので考えることができる。つまり、アイデンティティというのは、タイ語が上手だからタイ人だとか、日本語が上手だから日本人だとかいうふうに、すごく固定的で一元的なものではないし、例えば、タイ人とか日本人というアイデンティティというのも、とても固定的なものであって、それはある意味、民族的なアイデンティティという言い方では数えられるかもしれませんし、見ることができるかもしれませんが、そこを目指すということではありません。つまり、今ご質問された方もおっしゃったように、自分が自分である、その自分が何者であるかということをアイデンティティとするのであれば、それは混ざり合っているものであり、今目の前にいる人に出したい自分であると考えると、すごく動くものです。アイデンティティが確立するというと、ゴールがあったり結論があったりするように思いますが、実はそうではなくて、私たちはずっとその自分であることを確立しながら生きていると思った時に、やはり言葉というものをその能力と言ってもいいと思うんですが、言葉の有り様がポートレートにあったように、複雑に入り交じって刻々と変わっていくものであれば、それに従って私は何者であるというアイデンティティも変わっていくというふうに思います。揺れていることが良くないとか、ちょっと複層的になっていることが良くないということではなくて、それはものすごく単一的なものがあるべきで、しっかり何々人であるということがいいという価値観に基づいた考えになりますし、それは言語ポートレートの話に戻ると、ここで言語状況の中で暮らす子どもたちにはあまり合わないというように私は思うんです。そうではなくて、そういう状況を組み込んだ自分を何であるかというふうに言う。それが必要であって、言語の力とアイデンティティの関係性というのは、そこを語れることがそのアイデンティティに必要な言語の力というふうに言っていいのではないかなと思います。そして、言語ポートレートで現れていることの中にもアイデンティティが含まれていて、それを私たちがどのように見て、どのように認めるかということが、その子の言語の力を認めて伸ばすことにもつながっていくというふうに考えられます。

 

齋藤:心理学のほうでももちろんなさっていますけれども、この領域だと日本では異文化間教育とか異文化間心理学というような領域が多くしています。その中では、文化間を移動しているような青年や子どもたちのアイデンティティということが大きな主題になっています。アイデンティティですけれども、文化間を移動すると、どうしても何とか人のアイデンティティ、何とか人のアイデンティティというふうに捉えたくなってしまうんですが、例えば私でしたら、今ここに座らせていただいていますけど、なぜここに座っているかと言えば、私はこの領域の専門家だというふうに深澤さんが私を見たということです。私はその見立てを受けたアイデンティティをどこかで意識しています。また、私が今暮らしている中では、大学の教員として学生に指導している教員としてのアイデンティティがありますし、学校の先生方とコミュニケーションを取りながら子どもの日本語教育について一緒に悩んだり考えたりしている半分実践者のつもりでいるというアイデンティティも持っているんです。そう考えると、お子さんが、例えば、家族の中で長男であるアイデンティティとか、あるいは妹がいる僕というアイデンティティもあるでしょうし、母親との関係で、例えば、タイのお母さんと暮らしているときに日本語で何か用事が必要なときに僕が助けてあげるとなったときには、そこに今度はお母さんを言語面でサポートする僕というような、様々な側面のアイデンティティが複合的に合わせられた段階のアイデンティティ、合わせられた状態が自分のアイデンティティだったりします。そうしたときに、言語の持つ意味が非常に大きいんですけれども、この言語ができないと何とか人としてのアイデンティティはないねというような紋切り型の捉え方をすると、子どもたちは苦しくなります。その辺りを、異文化間教育のほうでは多元的アイデンティティという言葉を使います。いろいろな言語やいろいろな民族、文化が交じった状態だけれども、それが私である。そういうような捉え方ができるとよろしいのかなというふうに思います。

 

深澤:いろいろな学生たちにインタビューしてきましたけれども、ある時学生に発表してもらったときに、一番親御さんたちに言いたいことは何か。何々人として育てないで欲しい。あなたは何人だという言い方をしないで欲しい。私は私なのだ。それもまた変わっていくんですね、複合的に。しかし、自分たちが、私たちは日本人だ、何人だと民族アイデンティティで自分たちを整理しながら生きてきたものですから、複合的、しかも、そのアイデンティティが変わっていくということは、なかなか私たちが納得しがたい。だからこそ、一緒にそういう複合的なものを先生たちの話を聞きながらも捉えていけたらなと、その過程を子どもが一緒に生きてくれたらなと思います。

 

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3.池上先生と齋藤先生から発表へのコメント

《池上先生》 

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池上:まず、石野先生のご発表への感想とコメントになりますが、発表ありがとうございました。とてもアイデアが満載でしたね。これからまねしたくなるような、こんなふうにすれば子どもたちは単に埋める作業ではなくて、自分の中にあるものを文章として書き表してくれるんだなということがたくさん分かる実践の報告であったなというふうに思いました。

 

参加者と共有したいことは・・・まず意欲の喚起を大切に

池上:一つ分かったこととして皆さんと共有したいこととしては、まず意欲が大事なんだなということです。方向が先にあるのではなくて、まず書きたいなとか、これを書いてもいいんだなとか、そういう書こうかなと思える意欲をまず喚起して、それに乗せて、どういう方法だったらそれを文字に表せるかということを考えていく。ご発表もその順番だったと思うんですけれども、意欲の喚起から方法につなげていくということがとても大事なんだろうなと思いました。

 

意欲喚起の方法・・・ワークシートへの工夫

池上:意欲の中に、形式をいろいろ工夫して、ワークシートの工夫もたくさん見られたんですけれども、一つ大事なことは読み手を想定するようなワークシートを作っていらっしゃる。つまり、書くというときには、書いたものを誰かに読んでもらいたいじゃないですか。読み手がないものを書くというのはほぼない。落書きだって誰かが見ることを想定して書きますし、日記も実は自分が相手だったりしますよね。そういう意味で、そこに言語を書くことなんていうのは、これもコミュニケーションの一つなんですね。受け手という読み手に対するコミュニケーション行動ですから、それは子どもたちにとっても同じことで、読み手が想定できるようなワークシートの工夫というものが見られたと思います。

 

書き言葉としての機能の意識化とプレライティング

池上:それがいろいろここまでの実践、石野先生だけではなくて、学校教育の中でも積み上げられている形式だったり新聞の形式だったりもしますし、それをもう少し小さいサイズにしてお隣の人に見てもらうでもいいですし、石野先生に読んでもらうでもいいですし、今日お休みした何とかさんに読んでもらおうでもいい。それがリテラシーのほうでもお話しました、今ここの場所と今という時間を越える書き言葉の機能だと思うんです。それをどうやって子どもたちに意識化させてあげるかということが意欲にもつながっていくし、書くことという意味を子どもたちが理解して、書き言葉の機能というものを理解していくことにつながるのではないかと思います。そういったものを書いていくことによってそのもの自体が、プレライティングという言い方をするんですが、書く前の活動としてとても機能する。もちろん書いてはいるんですが、例えば、シナリオの活動とかは話し言葉をずっと書いていって、それだけでもなかなか面白いし、読むのも楽しいと思うんですが、あれはまだ構造のある談話、例えば、はじめ、中、終わりというのは小学校でよく言う作文の構造なんですけれども、そういったものを意識して、もっとそれを接続詞とか接続表現を入れてきちんとした展開の文章にしてまとめあげるという活動に結びつけるためには、あれはプレライティングというライティングの前の活動でも文字を使っている。それを、今度は話し言葉のやり取りを、もう少し話し言葉ではなくてジャンルを変えるという言い方をするとどうかと思うんですが、叙述の文として書くとどうなるかみたいなものを続けていけると、子どもたちが今書けることよりも一つ上の段階を目指すために書かなければいけないことを指導するというような活動につながっていくのではないかなと思いました。もちろん、実際の学校現場では指導時間も限られていますし、なかなか一つのテーマでずっと活動を続けていく、同じ活動として続けていくことは難しいかもしれませんけれども、そこはプレライティングのプレのものを、今シナリオで例を説明しましたけれども、話し合いだけでおさめて書く言葉に結びつけていくとか、もっとサイズの小さいワークシートに書いたものを文章に展開させていくとか、そういうふうに考えれば、今現在書ける力にプラスアルファの書く目標立てをして書かせてみる。それについてやりとりをして、また一つ上の段階の中身、構成につなげていくというような書く活動に進んでいけるのではないかなというふうに思いました。

 

今持っていることばの力を伸ばすために

池上:今回のご発表では、いろんな言語を持っている子どもたちのリテラシーのお話でしたが、もちろんいろんな言語を持っている子も混ざっていれば日本語が十分に使える子どもさんの例も多かったと思うんですけれども、子どもたちの発達段階もありますから、どちらの子どもさんにとってみても、今持っている力の一つ上のものを書くというのは、今持っている言葉の力を伸ばすという意味では必要だと思います。日本語の力自体がまだ十分ではない子どもさんの場合には、そこにもう少し丁寧な手助けを入れていくとか、ワークシートをもっと簡単にするとか、口頭での手助けをたくさん入れて文章につなげていくとか、そうするとできるのではないかと思いましたし、多分やっていらっしゃるのではないかなというふうに思って伺いました。そういう実践があるからこそ、今日のご発表のようなものが皆さんの前でご紹介できる形として残っていて、提示ができたのではないかというふうに思いました。つまり、嫌いにならないことが一番大事なんですよね。どの子どもにとっても。書くことが嫌いになってしまったら、面倒くさいとか、書いても直されるなとか、書けって言われても何書くの?とか、出来事作文を書いてと言ったときに、どうして?先生も一緒にいたじゃない?という話もありましたよね。誰が読むのですかという、それが質問だったと思うんです。そのときは、この授業ではみんな一緒に昨日やった運動会の作文を書こう。何をしたか。大玉転がしの次は玉入れだったこともみんな知っているじゃないか。なぜ書かなければいけないという根源的な問いを小学生が持っていた。つまりは、書くことにちゃんとこういう意味と意義があって、だから、書くことが良くて、だから、書いてみよう。嫌いにならないということが最も大事なんじゃないかなというふうに思って、そういったことにつながる実践報告になったようにお見受けをしました。

 

《齋藤先生》

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実態を何らかの形で可視化して表示していくってとっても大事なこと

齋藤:石野さんの実践について池上さんからお話がありましたので、嶋田さんのご報告についてですが、少し具体的な内容からは離れるかもしれないんですけれども、私は日本でちょっと教育教材に関わることがあります。そのときに求められるのはエビデンスです。「エビデンス」ってちょっとかぎかっこをつけるようなことがあるんですけれども、何かを変えていくというときに実態を何らかの形で可視化して表示していくってとっても大事なことで、それに挑まれていて、やはり私たちは実践をしていく中で、つまりエビデンスに該当するようなものというのを少しずつ周りに働きかけて、そして変えていくということを一人一人が意識していくことが大事だなということを改めて思いました。研究者がやってきて、調査してくれればいいのにと言っても、なかなかそんなふうにはならないですので、皆さん方が、もしかしたらお子さんのことについてつづったものが説得力を持つ場合もありますし、先生として日々生徒さんと接していて、残している記録が説得性を持つエビデンスになることもありますし、あるいは、ここで皆さんが集まっていらっしゃるので、皆さんの力を結集して何か数量的に表せるものを見せていくということも今後、この会で可能なんじゃないかなということも期待して、お話を聞かせていただきました。

 エビデンス(根拠、証拠)

 

池上:ぜひつながっていってください。今、嶋田先生のご発表には、量も大事だけれども、量より質その質を担保するものというのは関係性というふうにまとめられるのではないかなと思いました。関係性というとすごく広くなるんですけれども、多分このあとまたお話もできると思いますので。リテラシーを作っていくにもそれが大事だ、そこを目指して行くんだなということを会の初めからお話していますので、そこに注目して次のご発表を聞いたり質疑応答ができたらいいかなと思います。

 

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社会的存在としての人生を構築し、活動していくための力「リテラシー」を育てるためには、何より伝えたい相手がいること、表現したいことがあることが大切でした。そして、自分を表現し理解することが楽しいと思えたとき、そこから育っていくのだと感じました。それは日常でも、授業でも言えることでしょう。次回の第三回報告では、保護者である発表者からの「就業前の事例報告」と質疑応答、そしてコメンテーターからのコメントを掲載いたします。 

JMHERAT運営委員

 

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